「ピアノ学習」カテゴリーアーカイブ

良い演奏:普通のことが本当に普通にできているか?

習い事に限らず勉強でもそうですが、「私は、中学1年で中学2年の勉強をしている」とか、「大学レベルの勉強をしている」とか、学習進度でまわりに誉めてもらいたい生徒がいたりします。

私はチェルニー30,40番を小学生の低学年でやってたとか、ソナタをやってたとかですね。
(でも、中身はどんな演奏だったの?)

また、よく見る「神童」という言葉が、そもそも宣伝のための文句として使われ始めたように、
メディア露出する際には、売るための宣伝文句や話題性のある枕詞が多用されることに影響され、「誉めてもらいたい何か」を子供達が欲しがるのも仕方ないとおもいます。

しかし、長年生きてきた私は「すごい」と宣伝されるもの程、実は深みがなく、長い時間普通に行われていることにこそ、気づかなかった本当の価値があることを発見することが最近多いと感じています。

普通のことが普通にできること、それがいかにすばらしいのか気づかされるのです。

ソナチネであろうがソナタであろうが、心にグッとくる演奏はグッとくるのです。
グッとくる演奏をするためにやらなければならない「普通のこと」が毎日のどんな練習の中にもあるということなのでしょう。

どんな曲にも終わりはなく、アップデートは、常に必要ということでもあります。

実際、うちの息子にピアノを習い始めた頃に弾いていた曲「りっちゃんの飛行機」を、今もたまに弾かせるのですが、いまだに私が満足する演奏で弾いてくれたことは、一度もありません(笑) 今は、ソナタを練習しているのにです。

うちの息子の一つ上の学年に、小さい頃からよく指の回る娘さんがいました。「きらきら星変奏曲」を小4の発表会で勢いよく弾いていました。

当時の私は、ピアノの音色に関しての理解が不十分でしたから、その桁違いによく回るその指にとても驚いたものでした。しかし、そのお子さんの親御さん曰く、「音がよくない。むしろうちの息子の方が、音がきれい(?)」と言われていたのです。

ご冗談でしょう・・・「うちの息子は、それくらいしか褒めるとこないんだな。。」と思っていました。この時の私は「音がきれいって、どういうこと?」という状態だったのです。

しかし、最近になってその理解が私もできるようになってきました。ピアノの練習をしなくても、ピアノ曲を何度も聴いていくうちに素人だった私も耳が変わってきたのでしょう。(と思いたい)

ピアノは音を出してから消すまでの操作を体全体で行う楽器です。指の動きだけでなく足の操作があります。しっかり音を出せば良いわけではなく、テンポだってメトロノームに合わせてきっちり弾くのが正解でもなく、まるで一人オーケストラのように、左手・右手・腕、両足で、音をコントロールし、すべての音を演奏者の支配下に置いて「聞き手の心」に何か印象を与える空間(音場)を作ることができるかが、「求めるもの」なのです。

つまり、ピアノは、あくまで「その空間」をつくるための道具であり、それを「魔術的」に形成できた時、その演奏がすばらしいということなのです。(と感じます)

難しい曲をミスなく弾ききることは、すごいことではあるのですが、どこか心に響くものがないと結局印象に残らないのです。そもそもクラシックを聞くことが普通ではない日本では、普通に弾いていたら、なおさら響かないのということなのだろうと思います。(かといって、先生にだけに届く、やりすぎな表現も素人にはよくわからなかったりするわけですが)

まわりいn進度の速い子供がいることで焦ることもあるでしょうが、その必要はなく、今やっている曲で、いかに日々学んでいるか。これが結局、どの人にも当てはまるのだなぁと、日々感じるので、今回はそれを記載してみました。

参考になれば幸いです。

地区本選会の課題曲が決まる

コンクールの課題曲が何になるか、生徒が決めるわけではないので、冬休の間に「何になるんだろうね」って話し合ってきたのであるが、本日のピアノ教室で決定した。

課題曲は、これとなった。

はっきり言うと、これまでの発表曲でやった楽曲に比べるとやさしい曲なのである。

しかしだ、簡単な曲だからこその表現力を求められることがわかるのだ。楽曲が、やさしくなれば、なるほどに、皆が普通に弾けるからこそ、基本となる音色やメロディー、音楽としての表現力など、そもそもの楽曲の理解が、問われるのは確実なのだ。

いまいちど、タッチについて見直さないといけないかなと、先ほど息子と話し合ったところである。

グランドピアノを買わないといけない理由

河合楽器のおもちゃのピアノから始まった、わたしの息子のピアノおけいこですが、グランドピアノなんて、家の一室がピアノになってしまうから邪魔だから一生買うとか思うことは無いだろうなぁと思っていたわけですが、今は、いつグランドに切り替えないとダメになるか、今か今かと、考えている日々がありますので、そのことを書いておこうと思い記録します。

ピアノを弾いたことのない人間からしたら、電子ピアノもピアノでしょ!?って思うと思いますし、キーボードでもいいじゃんと思うんです。だって、私もそう思っていたんですから。ですが、今は、まったくもって、生ピアノじゃなきゃダメだということを、理解するに至っています。

じゃあどこがダメなのか?

アナログは無限であり、デジタルは有限なのである

今でこそスマホのカメラで、きれいに写真を撮ることができるのですが、一昔前は、デジタルカメラなんて、プロには使い物にならないという時代があったことを覚えていないでしょうか?絵の色をデジタル数で表す画素数があるわけですが、これがものすごく増えたことで、色のバリエーションが増えて、いつしか、デジカメがアナログと同等、あるいは加工のしやすさから、デジカメが今はあたりまえなわけですが、この進化が電子ピアノにはないのです。(ファミコン画質が、PS4までの間で劇的に変わっているような変化です。)

デジタルカメラは、今は21メガピクセル超とかいう色の変化をもっているからこその表現力をもつわけですが、電子ピアノはそのような進化をしていません。電子ピアノは、名器とよばれるスタンウェイなどの音を録音したものを、電子的に再生しているだけであり、その音を、大きくするか小さくするかという表現しか、基本的にはないと感じられます(※筆者は構造に詳しくないのですが、楽器の説明からはそのように受け取れます)

また、ペダルを使ったときの踏み込みの変化が電子ピアノでは再現されていないと感じますし、木工製品だからこその、ゆがみ的なもの、木だからこそのくせのようなものが、電子ピアノでは習得することができません。弦をたたくのではなくて、スイッチを押すのが電子ピアノですから、残念ながら電子ピアノが、生ピアノの表現力を手に入れるには、構造的な改革をしない限り無理と考えられます。が、それをやるとすれば大きな研究開発費用が発生しますから、ピアノの需要状況を考えても、実現は難しく、できても値段が高価で事業として成り立つようなものではない気がします。

なら、生ピアノの方がいい(安い)というわけです。キーボードから電子ピアノへの移行を考えているのであれば、ピアノは絶対に趣味でしかやらないという判断をしない限りは、やめるべきです。

アップライトピアノの限界

アップライトピアノは、自動車であれば軽自動車という表現がなされているのを見たことがありますが、これはかなり的確な表現だと思います。普段の練習であれば、軽自動車でもいいのですが、大勢を乗せるのであれば、大型バスというわけです。アップライトピアノが軽自動車ならば、大型バスは、フルコンと呼ばれる、1台2000万円超のグランドピアノというわけです。

では、軽自動車でピアノの練習はできないのか?というと、これはできるといっていいと私は思っています。音大を目指すとか、演奏家を目指すなら、早めにグランドピアノというのは、確かに理解できます。しかし、それを車の世界に当てはめるなら、庭にサーキット場をつくって、最初からF1マシンで練習をするような感じでしょうか。

プロのレーサーもカートからスタートするわけですから、ピアノの練習であっても、アップライトピアノでも可能だと思います。

しかし、アップライトにも限界があります。どこにでてくるかというと、まずは、トリルにでてきます。鍵盤を押した(叩いた)後の戻りのスピードが、重力を利用しているために構造上シーソーのようなグランドピアノの方が早いというわけなんですね。

トリルを多用し始めるのはソナチネくらいからですから、それまでにはグランドという考え方もありますが、かといって、高速なものでなければ、アップライトピアノでもカバーができます。しかし、メトロノームのテンポを上げて高速なトリルを美しく奏でるということを、意識したあたりから、アップライトピアノの限界が見え始めます。

息子の場合も、今のところはトリルでの限界は見えていないのですが、気になることがありました。ピアノを打鍵した後の、指を戻す「癖」に関する懸念です。

白鍵や黒鍵を引いた後に、指を上に戻す力の加減の感覚的なものが、アップライトとグランドピアノの練習で違ってくるのではないか。おそらくかなり微妙な加減ではあるが。

アップライトよりもグランドピアノの方が、指を上げてくれる力が強いとなると、弾いた後に自動的に指が戻ってくれる感覚をグランドピアノでは持つのではないか。

アップライトだと、

音を出す – 指を上げて – 次の音を出す – 指を上げて – 次の音を出す

グランドピアノだと、

音を出す –  (そのまま) –  次の音を出す –   (そのまま) – 次の音を出す

上記のような癖が、残ってしまうのではないかという、疑いが今あります。

とはいえ、昔はポケベルを使ってた人が、ガラケーをもって、スマホへ移行とすんなりいけてるように、昔はアップライトだった人も、すんなりグランドに移行できるような気もするので、これがグランドから練習しないといけない決定的な理由にはなるとは思いませんが、常に評価はグランドピアノを弾いている時に行われるので、その評価がマイナス的な印象につながってモチベーションの低下に影響してしまうことがあるのであれば、最初からグランドピアノということになる気がします。

グランドにしなければいけないと感じているところは、今のところこれだけなのですが、他にもあるはずなので、気づいたところで、このブログで書いていこうと思っています。

新しい調律師の方に2度目の調律を行っていただきました

本日は、昨年お願いした調律師の方にアップライトピアノの調律を1年ぶりに実施していただきました。いくつかメモを残しておきたいとおもいます。

ピアノの状態の指摘

・チューニングの狂い
・アップライトだからのねじの緩み

1年前に調律をした際には、強制的にリハビリをしてもらったわけですが、やっとどうにか、まともな状態になったという状態だそうです。といっても、私が弾いた感じでもかなり良い状態だと思えるので、最良の状態ってどんなだろうという感じです。2時間くらいは調整していただいてました。

いつもレンタルでつかっているグランドピアノと弾いた感じを比べてみても、調律後の自宅のピアノの方が音がいいと感じてしまうので、調律師30年のベテランの腕前は、すごいもんだなぁと思いました。

こぼれ話

・店員の給料は20万円いかない
・音楽は飯を食うのは厳しい
・演奏家は絶対に先生もやらないと食っていけないというか、学校の先生がやはり安定して、生きるなら一番いい
・腕を磨きたいなら桐朋に通う
・ヴァイオリン(弦楽器)をやる人程家柄がいいことが多い
・調律師はバブル期は年150人とか生まれたが、今は年30人くらいで、女性ばかり

国産のピアノは、新品を買う人が多く、中古が敬遠される状況なので、グランドピアノの国産品が、今は一番人気がないらしい。とはいっても、今の新品よりも木材の状態は良好なので、新品を買うくらいなら中古が圧倒的にお得であるとのこと。

金持ちであれば、スタインウェイを中古で買えば、資産価値が消えない=残るので、結果的に、一番お得とのこと。ブランド志向は消えることが無い。中古の外車に近い感じのようでした。

音楽とHSPと中学受験

音楽で飯は食えない

笑える。

学校の教員の枠は少ないし、音楽でお金を稼げるのは一部。そもそも音大にいけるのは金持ちだけ。でたところで、仕事はない。金の無駄。

世間には、いろんな言葉が残り、飛び続けている。実はどれも、人々の怒りの声である。かなわなかった夢、望みどおりにいかなかった人生の悲しい叫び達だ。

本当にそうだ。

でも、私達は、お金を稼ぐ為、生きるためだけに、生きているのだろうか?

そもそも、それで、生きているのだろうか?

どんなに大金稼いだところで、資産を積み上げたって、死んだら子供が奪い合うか、税で没収されるかだ。

そもそも一般人の大半は、起業した創業者あるいはそれを引き継いだ社長に仕事をもらうか、公務員として国に従うか、生まれながらの金持ち(資産家)に従うかだ

いずれにしても、働いてお金をもらう為に生きることを、最初から望むべきなのか?

私達はHSPだと最近気づいた

冒頭から、申し訳なく思いますが、この問いは自分に向けて書いていることです。先日、息子が入賞したことで、自分の私の昔の気持ちが蘇ってきてしまったようですね。

音楽中学校の入学について、このところ私は考え始めました。息子もそうですが、私はHSPという性格であることが最近わかりました。HSPについて”ぐぐって”調べてみてもらえば、わかると思いますが、HSPというのは4/5の人達よりも感覚がするどい人間なのです。集団の中では、刺激が多すぎるのです。

人類の4/5には理解されない感覚ですから、選挙でも勝てないし、多数決では、今後も1/5が優先されることはない気がします。だからこそ考えます。

私は中学校が大嫌いでした。集団が苦手でした。その原因には、HSPがあります。4/5の人達向けに指導をされる集団では、耐えられないのです。

非HSPの人達が、例えば、学校の規則を破ってスマートフォンを持ち込んだとして、HSP側にいる人達は、ルールに従っているのですが、学校の規則を破った人がいたことで、持ち物検査が始まったりします。(そもそも、HSPはルールを守ります)

しかし、非HSPは、この検査もあまり気にならないでしょうが、HSPは自分の荷物に他人が触れることだって、気になるわけなのです。集団の中にいる、HSP側は、非HSP達の問題に付き合わないといけないのです。そんなことが、集団にいると永遠に続いていきます。

だから、HSPに気づいたことで、私は最近、子供の中学校について気になるようになりました。私は、高校時代、自宅からいける範囲で偏差値が一番高い高校に通うことができたのですが、そこで救われると思っていたのですが、結果的には違っていました。

そもそも集団の中では、ダメだったのです。

息子は、今のところ集団がダメということはないようですが、最近は、「ヤンチャな子達とは距離をおきたい」とか、「ヤンチャな子と一緒じゃ疲れる」とか言うようになってきたのです。これは明らかにHSPだからの発言です。非HSP側にとっては、ヤンチャすることは楽しいことでしょうし、その刺激が心地良いのだと思います。が、HSP側にとってみれば、迷惑でしかない。心を蝕むノイズでしかないのです。その感覚があるからこそ、中学受験を思いなおしてみました。

中学受験について

私は子供が5年生の今年、ある都立の中高一貫校を見てきました。学区の子供と、優秀な子供達とが半々で学ぶ中高一貫校で、補助金もあり、少ないお金の負担で、やや先進の授業を学べることは魅力でしたが、電車通学に40分であったり、都内だからこその敷地の狭さを見ると、負担が大きいので、中学受験はいらないと思っていました。行くなら、マンションでも買って引っ越し学区であればありかとも思いますが、マンションを買うにも5,000万円以上の地域ですから、それも無駄に感じました。

ところが、HSPであることを思い出しました。そして、音楽コンクールでの入賞。まぁ、入賞程度ですが、気になったのは、HSPだからこその勉強の環境の問題です。通常の公立高校にいく場合は、結局、非HSP側が優先される学校に行くことになるのです。

日本は、そもそも内向型の人間の多い地域ですから、HSP側に合う学校環境もあったのですが、それが欧米のプレゼン(発表≠表面だけ)社会の影響を受けて、オープンスペースなどの、自分達に合わない方向に、学校も変えられています。(欧米では、非HSPが認知され、内向型も認知され、その環境づくりが始まっていることとは真逆の動きです)

そこにきての中学の選択。おそらく普通に公立中学に行っても救われることはないでしょう。私と同じ苦労が見えてきたのです。そこで、浮上したのが音楽中学校です。効果も無いとの声も聞きますが、そもそも、音楽中学校の数が少ないのに、体験していない人が大半なのに、悪口がこうも多いのか?普通に考えておかしいですね。ということで、説明会に参加して検討の検討を考えています。

音楽中学校であっても集団の呪縛からは逃れられないとは思いますが、少人数であることは多くのメリットを感じています。

音楽や芸術を作る人達は、引きこもりや、うちき、シャイ、人見知り、そういった傾向がつよいはずで、私はHSPの人達だったろうと考えています。だからその環境にはメリットを感じます。行ってみたらまったく違うかもしれませんが。

自分の外側からエネルギーをもらう非HSPは、人の音楽を組み合わせて良いものを作るのが得意でしょう、一方で自分の内側からエネルギーを作り出す、HSPはオリジナルな音楽を作るはずです。

音楽をやってもお金にならないの前に、音楽中学校に価値があると思ったので、そのことを今日は書いてみました。参考になれば幸いです。

小学生のためのピアノコンクール入賞方法について(素人目線で)

ピアノコンクールで息子が見事入賞し、予選を無事突破することができました。(といっても、小学生向けのコースですが)

ピアノコンクールで上位入賞するまで、私達が日々のピアノ練習の中でやってきたことを皆様に公開することで、ピアノ学習に素人である私のような親、そして、これからピアノコンクールで入賞を目指す子供達のピアノ学習のお役に立てるかもしれません。

このページでは、ピアノコンクールで入賞するためにいくつかわかってきたこと心掛けたことを書いてみようと思います。

毎日のピアノ練習について

ピアノコンクール入賞を目指すのであれば、ピアノの練習を毎日やることは残念ながら当たり前です。しかし、コンクールの予選を通過したうちの息子も、毎日かかさずやれていたかというと、そうではありませんでした。

小学校高学年になると、学校の旅行を含めた行事、日々の宿題があります。ピアノだけをやっていればいいわけではありませんし、ゲームや遊びの息抜きも必要です。

ゲームや遊びはやらせず、ピアノ一筋ができる子供ならいいですが、やりたいことがある(=好奇心が旺盛)ということは、今後人生で起こる様々な苦難を新しい発想で乗り越える力を学ぶ機会でもあるといえるので、遊びたい(=やりたいことがある)気持ちがあるなら、完全に否定することはできないと私は思います。人は遊びから学ぶからです。

ピアノの練習は、毎日やらないといけないことですが、気分がのらずやれないときは、たった15分だけの指練習で終わり。そのような状態も何度かありました。

ハイレベルな音大にいくような人は1日4時間の練習をやるというような話も聞きます。それを聞いて、頑張って最高1日2時間くらいピアノの練習をやれたこともありましたが、小学生のうちに1日4時間のピアノ練習はありえませんでした。

中学生になってから、休日であれば1日4時間が可能となってます。

これまでのピアノの練習時間について記載しています
1日4時間の練習が最低必要と書かれていた書籍

平行して様々なピアノ曲にチャレンジする

ピアノを小さい頃から習っていれば、それまでピアノを習っていなかったお子さんに比べてのアドバンテージは当然あります。しかし、ピアノコンクールで競争しているのはピアノを習ってきた子供達なので、現実としては、ピアノを習っている人達での競争となっている現実があります。

音楽という言葉には、音を楽しむ「楽」という言葉が含まれており、音楽が楽しいのは自分もなのですが、コンクールのような競争の場を目の当たりにすると、どちらかといえば聴いていただく聴衆が楽しむものかなぁと感じます。

小学校に通っていれば、おのずと何かしらピアノを演奏をする機会があります。学校内での合唱の伴奏や、市区町村の学校レベルでのコンクールなどの機会があると思います。

そこでも、ピアノコンクールでの演奏を見据え、ピアノを発表する貴重な機会ととらえ、しっかりと曲を任せられるように努力することが大事だと思います。

ピアノコンクールでも、古典、バロック、ロマン、現代のように、様々なタイプの音楽の課題曲が与えらます。ソナチネだけのように一つのスタイルだけをやっていても、演奏の幅が広がりません。

息子の場合、小学校3年生くらいから、オーディション形式で、学校内の合唱曲のピアノ伴奏の選考が何度かありましたが、どれも2週間以内で弾けるように努力をしていました。

息子の場合は、この努力というところが、新しい楽譜が楽しみで、好きでやっているという面があったので、必ずしも努力と言っていいのかわかりませんが・・・

ピアノ教室での通常の練習曲、平行して学校の合唱の伴奏、そして、日頃好きになった音楽(ゲーム音楽、歌謡曲、ロック)などを平行して、曲を楽しんでいました

ピアノコンクールにおいても、 予選を突破し先に進む程に、 様々な演奏スタイルが求められますから、普段から様々なスタイルのピアノ曲にチャレンジすることは大事だと思います。

グランドピアノが無いことは問題なのか

我が家にはグランドピアノはありません。アップライトピアノを使っています。

使用しているピアノは、中古で買った東洋ピアノのアップライトピアノで、SSS機能が付いています。ヤマハやカワイのピアノにはない、この機能のおかげで、左のペダルでも、グランドピアノっぽいことができるわけですが、それが、ピアノコンクール入賞に役に立ったかというと、まったくだと私は思います。

やはり、アップライトピアノはアップライトピアノとなります。

しかし、小学生レベルのコンクールでは、使用しているピアノがグランドピアノであろうが、アップライトピアノであろうが、問題はないと私は考えています。

そのピアノコンクールの総評では、審査員である音大の教授が「私達の子供の頃は、ペダルを使うことはソナタレベルになるくらいまでは許されてなかった。」とおっしゃっていました。

それを聞いた瞬間、テニス部の1年生は球拾いとか、コートに入るのは早いから、素振りで学び、見て覚えろとか、日本人のいじめ的な要素を感じたのですが、それを知るに、よけいにグランドピアノの必要性がないことを感じました。

ペダルはソナタまで使うな」ということは、グランドピアノなんて、上手くなるまで使わせるわけがないだろうと、言っているようなものです。

ピアノコンクールは楽器メーカーも運営しており、コンクール自体がビジネスになっている側面がありますから、それを表立っていえるのは大学の教授クラスにならないとできないでしょうが、いいこと(本音)を聞いたなと思いました。

とはいっても、ソナタレベルになってくると、グランドピアノとアップライトピアノで構造の問題は必ずでてくると私は理解しています。

ピアノだけではなく、絵画などもそうですが、その道具でないとできない仕事というのは、絶対にあるはずで、グランドピアノだと普通にできるけど、アップライトピアノで、それを表現しようとすると難しいというようなものがあると思っています。

アップライトピアノでよく言われるのは連打可能な回数の限界です。

ただ、そのレベルになるのは、ラ・カンパネッラを弾けるようになるくらいになった時の話で、そもそも、当たり前の毎日練習と、当たり前の演奏ができるようになってからのグランドピアノでいいと思っています。

もちろん、お母さんがピアノの先生で、すでにグランドピアノが自宅にあるご家庭であれば、最初からグランドピアノを使えることは贅沢とは思わず、普通にグランドピアノで練習するのがいいと私は思います。

アップライトピアノスタートだから不利だということは無いということは言えます。小学生のピアノコンクールであれば、なおさらです。

ピアノで勉強しなければいけないことのすべてを、小学生でマスターできるはずはないのですから。必要なら結果が出てからグランドピアノにすればいいのです。

しかし、電子ピアノだけはダメです。将来的には、電子ピアノもコンクールで勝てる練習ができる楽器になることがあるかもしれませんが、2016年の現状では、電子ピアノはまだ、NGです。

2019年の今も電子ピアノがOKになる未来は見えてきていません。

レンタルスタジオを利用する

グランドピアノの問題と似ているのですが、グランドピアノがないことで、私はコンクール前の1ヶ月だけ、レンタルスタジオで練習をしてみました。親の私は、アマチュアですがロックのバンドをやっていたこともあり、スタジオを利用して練習をしていた経験があったので、ピアノのスタジオも普通に利用してみたかったわけです。(もちろん、私自身のグランドピアノの違いを学ぶための機会でもあるわけですが)

私の息子の場合は、毎週土曜日の1時間30分だけを使ってレンタルスタジオで練習をしていました。部屋ごとに、ボストン、ヤマハ、カワイと違うピアノが用意してあるので、あえて異なるピアノで練習をさせてみたのですが、この練習はよかったかと思いました。

ピアニストが、自分のピアノを使って演奏するのは、一部のプロくらいなもので、実際に使えるのはそこにあるピアノなのですから、どんなピアノでも、自分らしい音を出せるような練習というのは必要だと思っています。なので、多くのピアノで練習することに意味があると思っています。このピアノちょっと違うなぁ・弾きにくいなぁというところでも、じゃあタッチを体をこう変えれば、気持ち悪くないなぁなんて、子供レベルの対応も学べるわけですね。

その年の課題を持つ

ピアノの習得度によって、何をやったらいいかは難しいところですが、たくさんある出来ないことの中で、今年はこれをやりきろう、今回の曲のこの部分はモノにしよう。そういった目標を持つことは大事だと思っています。

うちの息子の場合は、今年はリズム。去年はトリル、タッチ。その前は、忘れましたが、、、何かしら、今の課題というのをきちんと洗い出して、やるようにしていました。来年は、ペダルかもしれません・・・ いずれにしても、それぞれの演奏の中で、一番の問題となる箇所はあると思いますから、そこをまずはやっつけていくのが大事かと思います。

一番大事な気づき

ここまでこの記事を、ブログを読んでいただけたアナタには特別にお伝えしようと思ったことがありました。隠して、伝えなくてもいいとも思いますが、かといってどちらかというと、人気の薄れつつあるピアノですから、上手な子供達が増えて欲しいと私も思うので、書いておこうと思います。もちろん、それが、あたりまえなのかもしれませんが。

ピアノ上達のポイントは、結局のところ、音を大事にするということなのです。

当たり前ジャンですが、じゃあ、どうやって音を大事にするかというのは、なかなか教えてもらえません。

次のヒントは、メトロノームでゆっくり練習するなのです。

ですが、これも、だからといって上手くならないんですね。ゆっくりやる?ゆっくりできるけど・・・・

違うんですね。ゆっくり練習して、ゆっくりできるわけがないんです。上手じゃないうちは、ゆっくりやっても、やっぱり上手じゃないんです。

ゆっくりやる理由は、細胞レベルで研究する学者と同じ意味なんです。パソコンや携帯電話の中には、電子部品がたくさん入っていますが、あの部品は、大昔は学校の教室2つ分くらい必要なスペースに入っていたはずなんです。今は、電子顕微鏡のようなものをつかってか、パソコンで拡大して、細かい作業をやるわけですが、そのことがピアノにもいえるわけです。

メトロノームでスピードをゆっくりにして、そのゆっくりのスピードの中で、どのタイミングで音をのせるのか、消すのかを考えるのが、ゆっくり練習するの意味だったんですね。

わかりますか?

ゆっくり練習するときは、逆に言うとなんとなく弾けないんです。ゆっくりだから、そのタイミングまで待って音をだして、そのタイミングを待って音を消してるんです。考えなくちゃできません。

それをゆっくりのときに練習しているわけではなく、決めるのです。どこで、音を出して、どこで音を消すかを、ゆっくりのときに決めるわけです。そして、それは細かいものを拡大して決めている作業とまったく同じなのです。

ゆっくりの練習なくして、最高の音楽はなしえない。そう私は確信しました。まぁ、この気づきが正しいかどうかは、これからの結果で明らかになるかと思いますが、その報告はブログでも紹介していこうと思いますので、よければ今後もお楽しみください。

ここまで、読んでいただきまことにありがとうございました。

Debussy – Doctor Gradus ad Parnassum

皆様いかがお過ごしですか???

ブログの更新が久しぶりすぎになってしまいました。

というのも仕事が忙しいだけではなくて、健康診断の結果が悪く病院にいくことになり、ライフスタイルを変える必要があったのと、子供の面倒を見る機会が増えてしまって、ネットに迎える時間がとれなかった(?いやネットの時間はとれるんだけど、生活が落ち着かなかった)こともあり、今日になりました。

さて、今日YouTubeで視聴した「グラドゥス・アド・パルナッスム博士 / “Doctor Gradus ad Parnassum”」を掲載です。

なぜか、それは次のピアノ発表会の課題曲だからですね。

さて、小学校も高学年となり、宿題が増えて子供もどうやらピアノの時間をとることに抵抗が見えてきました。

そういえば、ひとつ上6年生の神童だった天才児もピアノが熱心じゃなくなったのも昨年である。ということで、小学校高学年と言うのは、かなり宿題が増えて、子供の時間がなくなる時期ということが理解できました。

私が子供のときはまったくそうじゃありませんでしたが。。。

この曲、息子に言わせると、

曲の終わりがなぜそうなのか理解できない

ので、好きになれないそうなのである。調べてはいないですが、おそらくは作曲する上で作品の曲のつながりで、何かしら理由があってな気がしますね。

やる気がないのは、練習を聞いていればあきらかで、曲がのっぺらぼーになってしまっています。

ということで、今日は前出のYouTubeの動画を息子に聞いてもらいました。

もちろん、

うまい

との感想を回答。そして、問題の終わりのフレーズについては、

早くなっててよくわからん。

だそうな。

奥さんからは、息子がピアノをやめたいって言ってたと聞いたのですが、今日話を聞くと。この曲がいやって話でした。

いままで息子が好んで弾いてきた曲は、どれも変化がある曲だったので、この曲は好きになれないんだろうなと思います。

で、私は思います。

苦しめとw

苦しむ時こそ、人生に変化がおこり別の可能性が見えてくるのである。

まぁ、そんな感じで、久々のブログ更新でした。

ランキングがかなり後退してしまいましたね・・・更新していなければ当たり前ですね;

次回はもう少し早いペースで更新したいものです。それではまたよろしくお願いします。

いまさら気づく、ピアノコンクールは長期戦!

皆様、いかがお過ごしですか?

学校の終業式も終わり、桜も咲き始めて、いよいよ新学期の足音がし始めるそんな季節になりました。

私の職場では、自己都合で退社される方がおりましたが、大きな変化はあまりなさそうです。

さて、先週私達が参加していたピアノのコンサートでは、コンクールで入賞・入選をとった人のコンサートだったわけですが、そこで気になったことがあります。

それは、タイトルにある、ピアノコンクールは長期戦であるということです。

どういうことか!?

入賞者コンサートには、コンクールで3位だった私の息子よりも上位にいた方々も参加していました。

そして、私達ももちろん気にしていますから、どんな演奏をするか楽しみにしていました。

曲はおそらく、次回のコンクールの課題曲だろうと予想していました。

やはり実際、次の関東大会の曲を演奏していたんですね。

ですが、、、

ですが、どこか予選の時の鮮やかさが無かったんですね。

いかにも準備不足といったのを感じてしまう演奏となっていました。

確かに指は動いているのですが、曲の躍動がまったくなく、予選で観客を魅了した演奏になっていなかったんですね。

はて!?どうしてなのかと、私は考えていたのですが、今日ちょっと考えていて気づいた結論は、関東大会、やその先の本番を意識した練習をしていなかったのではないのか?という憶測です。

年に一度の予選に向けた練習というのは、1年かけて行うこともできます。

そうなると余裕を持って望めるわけですね。

ところが、予選の3ヵ月後の関東予選、そして、その3ヶ月後の本大会があるというのが、ピアノのコンクールの通常の流れであるわけです。

そうなると3ヶ月の間のなかで、曲を仕上げることが必須となります。

ところが、子供は、ピアノだけではなく学校行事をこなさなければいけません。

また、合唱や合奏のピアノも頼まれることもあります。

そういった中での3ヶ月で、多くの準備をした人が、本選でも力を発揮できるということになるわけです。

予選は通過できるけれども、そこから先の壁というのは、時間的にもあるということなのですね。

では、うちの息子の場合はどうだったかというと、予選の後は、練習曲2曲と学校行事での2曲を仕上げていました。

そして、コンサートの曲を並列してやって、先週のコンサートに望んだ状態です。

今回の完成度を見ると、うちの息子は予選こそ、まだ実力が伴っていないものの、曲の仕上げ方を見るに、平行での練習には、耐えうることを、すでにやっているので、今後、関東大会、本選、それぞれの3ヶ月で準備することは、特には問題ないと感じました。

とはいえ、そもそもの基礎力がまだ足らないからの予選3位というわけですから、後半年で、どれくらい伸ばせるかというところが、一番大事なのは変わりません。

もちろん、まず地区予選を突破することが、目標であれば、前回のコンクールで弾いた曲を再度練習するというやり方もできるのです。

同じ曲を2年かけて練習して、出場することも可能ではあります。

でも、おそらくそのやり方は、息子も望まないし、息子の先生も望まないでしょうね。

息子は、勝つためにピアノをやっているわけではなく、音楽が好きだからピアノをやっているし、そういう考え方を、ピアノの先生もしているようです。

実際、次はどんな曲をやろうかと、先生は探し始めてますから、明らかに勝つためではなく、成長の為の曲を選ぶ姿勢でいます。

 

続・「ピアノの音色がキレイだよね」 どういうことか?

ピアノの音がキレイということは、どういうことなのか?という話は、今回が始めてではないので、続とタイトルに書きました。

皆さん、お元気ですか?私は、今ちょっと憂鬱です(笑)
ですが、そんなことは忘れて、ピアノの話に没頭したいと思います。

うちの息子は、

「ピアノの音色がキレイだよね」

と言われてきました。少し昔の話ですが、ものすごく指がまわる娘さんを抱えているお母さんからも、そういわれてきました。

その時の私は、

うちの息子はあまりピアノが上手じゃないから、キレイって言われている

と感じたものでした。本当にピアノが上手な娘さんですからね。まぁ、それくらいしか褒めるとこないんだろうなぁって思ったわけですね。

なんで、こんな話題を今日書いているのかといいますと、先日のコンサートで演奏した「千本桜」においても、楽屋裏で他の先生達に息子の出す音がキレイと言われていたことを、担当の先生に言われたからです。

これを聞いた奥様は、無駄に上機嫌ですが。。(君じゃなくて、息子の話なんだけど・・・)

さて、この「音色がキレイ」というテーマで、私はいろいろと分析というか、客観的に考えてきたので、その答えを今は持っています。

私は、息子のピアノを聴いていて、他の子供達に比べて音が小さいなと感じていました。特に、コンクールや、発表会では、顕著にそれを感じていました。

そこで、自宅での練習の際に、

「もっと強く弾けないの?」

と聴いてみたわけですね。息子に。そして、強く弾いてみて、息子は、不満を持っていたんですね。

そして、その時です。息子は、

音が汚いからやなんだよ

って言ったわけです。つまりです、音色を気にして普段から弾いている事実がこの瞬間に発覚したわけです。

息子は誰からか教わって、こうなったわけではなく、潜在的にそうなっていたわけですが、その理由も私はわかります。

息子は、少し神経質なんです。まぁ、よく言うと繊細。

何かひとつのことをいわれただけで、大げさに捉えたり、怖い幽霊の話などを聞いただけで、夜寝る際、怖くて電器を消せなくなってしまう。

そんなわけですね。悪く言えば、息子は臆病というわけです。

そういった性質があるから、ピアノの音にも敏感で、音のコントロールをしていたということです。

でも、よくよく考えてみると、この何かがキレイという感覚は、そもそもピアノの演奏だけではないんですね。

たとえば、毎日の挨拶もそうです。

とても元気に「おはようございます!!」というお子さんもいれば、少し恥ずかしそうに「おはようございます」という子供、照れくさそうに「おはよう」、

言いたくないけど、「おはようございます」。言えなくて、無言な子供もいます。

いろんな子供達がいます。

そんな何気ない挨拶からでも、私達は、いろんなことを感じますよね?

ピアノの音色もそれと同じことが言えると私は思うのですね。

とてもやさしい挨拶、とてもよい演奏、音色というのは、そのような繊細な部分が現れるというわけですね。

元気がいい子供は、元気なピアノの演奏をしそうですし、ピアノの演奏を聴くだけで、最近の私は、どことなく性格が見えるような気がします。多分、気のせいだと思いますが。

結論から言えば、「音がキレイ」と言われるのは、本当に、打楽器と言う性質もあるピアノにおいて、雑音を出すことも可能であるが、心地よい音を、絵檀で実際に出して演奏しているということです。

スタインウェイは、どんな音色も出せるから、すごいんだという意見をされているピアノのWEBサイトがありましたが、まさにそれで、同じピアノでも、演奏者が違うだけで、まったく印象が違うというのを、先日のコンサートでも私は目の当たりにしました。

ピアノの演奏においては、音色がキレイよりも、元気なピアノが好きな人もいるだろうし、音よりもリズムだったり、そもそもの楽曲の好みもあるものでから、ピアノの音色がキレイだからすばらしいということではなく、

音がキレイもピアノにおける一つの表現だということなんだ

と私は思います。キレイ=すごいというわけでも、もちろんないわけですね!

ということで、今回は私の感じている「ピアノの音がキレイ」の意味について、ブログの記事にしてみました。いかがでしたでしょうか。

おそらく人それぞれ、評価についていろんな感じ方があるし、実際にピアノの演奏がうまくないからきれいと言っているときもあると思いますが、何度も言われていたので、私は上の結論に至っているという状況です。

参考までに、読んでいただければ幸いです。それでは、今回はこの辺で。

子供はすごい!

親ばか的な記録となりそうですが、このテーマで書いてみようかと思いました。

今思い返してみると

才能

という言葉の意味をきちんと理解できるたかと言えば、これまではできなかったと言える。

これまでの、自分の理解では、「才能って言うのは誰にでも、何かしらある」だったんですが、そうではないときちんと理解ができるような経験となったんですね。

これまでの、私の自身の経験から見て

自分ができることは、できるけど、できないことは、できない。

自分が興味あることは、できるけど、やりたくないことは、できない。

そんな程度の理解でいたんです。

ところがです。その興味と言うのは、何か?という話になるのですが、才能のある人間というのは、なぜか、その物事への取り組み方が変わるんです。

たぶんそこは、心が大きく関与していると思うんですが。

心のパワーが違う。心とその物事のパイプがすごく太くなるという感じな気がするんです。

というところで、朝書ける時間は終ってしまったので、続きは、夜にでも・・・今日も仕事が長いので、、この辺か・・・