「10才のありがとう」を公開しました

小学校生活の中で中盤の折り返し、節目の4年生のときに、学校で二分の一成人式(10才の成人式)が行われました。その時のピアノ伴奏を息子が担当していたので、YouTubeにその時の合唱の様子をアップロードしました。

あまりよい映像ではないので、ためらっていましたが、小学生には小学生らしい普通の姿が、逆にほほえましいので公開しました。

私の子供のころは、二分の一成人式という言葉すらなく、小学校の4年生のときについて思い出すのは担任の先生の顔くらいしかなく、淡々と過ぎていったとしか記憶がないわけですが、このような式を小学校時代にやるのは親にとっていい思い出になると思いました。(子供はそれぞれだと思いますが)

20歳の時に行う、実際の成人式となると、やんちゃな一部の人が暴れるのを報道して視聴率をかせぐマスコミというのが毎年の定番となってしまって、あまりイメージがよいものではありませんが、まだまだ純粋な小学生、あまりにも心に響く式に感動したのを覚えています。

この楽曲の伴奏は、難易度としてはそれ程高くないですが、歌と合わせるという意味では、音楽の先生の苦労が多分に感じられました。学校から帰ってきて不機嫌な息子の姿がたまにありました。とはいえ、短期間のなかで、学校での伴奏オーディションを受け、選抜され勝ち取って練習したのですから、やりがいがあったと思います。

原曲は2000年以降に生まれたようですが、親の気持ちを良く汲んで、涙を誘う歌詞になっています。何度も聞くと慣れてしまいますが、初めての方は、ぜひ歌詞を聞き取ってご鑑賞ください。

ピアノを弾くのと芸術的に演奏することの違い

ピアノを弾くことに関して、私はこれはもう弾ける。あっちのほうが難しいから、チャレンジする。

といった視点で語られることがあるが、はっきりいってこれはナンセンスである。

楽曲は楽曲として、作曲者がおり、イメージしている世界がある。その世界を再現することに関して、終わりはないし、単純なフレーズでさえ、簡単ということは永遠にないのである。

では、なぜ多くの人がこのような、勘違いを起こすのかと問われれば、結局のところ

芸術は、HSPという1/5未満の人間にしか理解できないし、創ることができないからである

と、私は感じている。

ショパンをはじめとした音楽家、ピカソやゴッホをはじめとした画家、どちらにおいても、どんな作品もすぐに理解できる人などほとんどいない。

ピカソは別として、ゴッホなどは、死後に公開され評価されるなど、死ぬ前に評価される芸術家は圧倒的に少ないのである。

これはなぜかと問われれば、圧倒的多数の非HSPによって、見た瞬間・聴いた瞬間によくわからないと排除されるからであろう。

多くの人=4/5の非HSPが、多数決的に評価をすれば、新しく創造されたものはすべて評価されない。

ショパンは、小さくてよく聞き取れない。ピカソはへんてこ。そのように解釈をする。

では、なぜ、その後で評価されるのかと問われれば、これもHSPが関わる。1/5しかいないHSPが、なぜ、そのような作品を作っているのかを考える。そして、理由がわかる。

そこから、またたくまに、作者が表現したかったことの理解がすすみ、世に広まるのである。HSPが創った作品を理解できるのも、またHSPなのである。

このような視点で、ピアノ演奏を見てみた場合も、「A曲とB曲、どっちが難しいですか?」とか、「もう弾けるようになったので、別の曲」とか、言うのは非HSPであり、HSPであれば、何かしら、次の課題が残っているが、それでも次の課題曲を渡されたので、しかたなく、次の曲を始めることが多いはずである。

そして、またもとの曲を弾く時に、残っていた課題ができれば感動、できなければ、内省をするのである。

HSPでなければピアノを芸術的に弾けないということはないが、深く演奏するためには先生を含めた内省の機会、また、HSPの関与が絶対に必要である。HSPがいなくても、なんども飽きずに同じ曲が、この完成で本当にいいのか?作者は、なにを考えていたのか?この表現が、彼が考えたことを表現することになっているのだろうか。との再検証で、細部をよりきめ細かくして、初めて、演奏が芸術的になるのである。

指が動くようになれば、終わり。というのが、多くのおけいこピアノプレイヤーであり、芸術家にはおわりがないはずである。

料理のたまご焼きでさえも、簡単という答えをする人もいれば、究極を求め、鳥の種類、生産地、温度、加える調味料の量、調理道具、加熱のタイミングをすべて、細かく正解を探し、究極を探しつづける人もいる。

弾けることと、芸術的に演奏できるようになることとは、まったく違う感覚なのである。

そして、多くの人はこれができない。そしてそれは考え方、脳の思考パターンによるところがある。そして、そこには内省型のHSPか、外にエネルギーを求める非HSPかによる。

しかし、非HSPであっても、それを理解し、正しく指導してくれる人に囲まれれば、問題ないだけではなく、非HSPだからこその、人に伝える技術で、芸術をより広められる人物になるというのは、メリットとして残る。

HSPかそうで、そうでないかで、芸術が理解できるかできないかを私は書いたわけではなく、芸術を深く楽しむ時間をもてるかどうかが結局は鍵なのである。

弾けるようになっておしまいにしていた人は、そうではなく、もっとよい演奏をするにはどうしたらいいかを考える人間もいるんだな、ということを理解をし、芸術がわからないなら知っている人に聞く(という能力は非HSPの方が簡単にできるのだから)、そのように動けば、芸術は磨かれるといことである。

神様は残酷である

神様は残酷である。タイトルは、何事?と思える感じですが、今日は、息子のことではなく自分のことを書いてみようと思います。

私は、15歳の頃にギターを始めました。当時はXやLunaSea、黒夢などのビジュアル系バンドに触発され、バンド音楽にはまってしまっていました。自分もかっこよくなりたいと中2病のようにあったわけですね。

当時、肥満児だった私は、XのHideさんもそうだったことを知り、80を超えていた体重を50kgにまで落としたりしていました。過酷なダイエットをしていたものです。

本気で音楽をやりたいとなると、どんどんかっこいい音楽に追求することになりました。徐々に、海外のハードロックバンド、へビィメタルバンドに興味が移り、より演奏が難しいものへと興味が移っていました。

さらに、日本のアーティストというのは、本当に演奏が下手だなぁと思ったものでした。自分はミュージシャンにすらなっていないのを棚に上げてですね。

当時の私は、書きたくはないのですが、本気でミュージシャンになりたいなどと思っていて、現実はわかっていても、それでもやりたいと本気で思っていました。バンド活動をしていて、ライブハウスに出演などをしていた。

そして、音楽の専門学校にも行きます。ANミュージックスクールですね。

しかし、そこで、究極に感じたのです。

絶対音感の壁、自分のテクニックの低さ、才能のなさ

をです。当時の私は、「才能が欲しい、絶対音感が欲しい」と嘆いたのでした。

それでも、どうにか続ければいつしかと思いもありましたが、結局、自分の限界と現実を理解し、学生の終わりと共に就職をして、音楽の道はきっぱり諦めました。

もう音楽とは絶対関わらないと決め、楽器ショップや楽器メーカー、オーディオメーカーなどにも興味がありましたが、絶対に、のちに後悔することがあるだろうと、選びませんでした。

そうやって、音楽とは二度と関わらないと考えていたのでした。

そうやって、10年ぐらいが過ぎました。

しかしです。結婚し子供が生まれると、妻が息子をリトミックを習わせていました。私は、おけいこごとの一つだと、特に気にしていませんでした。

次に、息子がピアノをやりたいと言い出しました。まぁ、やりたければやればということで、お金だけ出していましたが、特に私が何かをすることはありませんでした。

そうこうしていくうちに、あるとき、息子に絶対音感があることに気づきました。

私が、手に入れることができなかった、絶対音感を持っていたのです。それも、専門の教育無しにです。

でも、だからといって、ピアノの演奏は、普通レベルでしたから、とくに期待もしていませんでした。

しかしです、小学校にあがり、毎年付き合いで、発表会、コンクールに出場が始まるわけですが、毎年、少しづつですが、順位を上げていくのです。

気づいたら、絶対音感もあり、コンクールでも予選1位通過をするようになっていたりしたわけです。

私は、書きました。

もう音楽とは絶対関わらないと決めたと。

しかし、神様は残酷です。20歳頃の私が、望んだ、絶対音感と才能を、息子に与えていたのです。

今後、この息子がどこまで行くかはわかりませんが、小学生の私はギターすら本気で弾き始めていなかった時期です。

息子のやっているソナチネ、ソナタの楽譜を見ると、とてつもなく難しく感じます。それを、いつしか、普通にやれるようになっている息子が目の前にいるのです。

横で、練習しているのです。

もう音楽とは絶対に関わらないはずが、関わらざるを得なくなる現実になってしまっているのです。

これを、残酷と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょうか。

そして、否応無しに、子供に私が実現できなかったことを、実現できるのではないかと期待してしまうのです。

でも、私は知っています。甘くないこと、上には上がいること、そして、そもそも音楽が売れなくなってきている現実をです。

それでも、私が、持っていないものを、神様に与えられている息子が、目の前にいるのです。

なんて、残酷なことだろう。

神様は、なんて、残酷なのだろうと、最近私は考えるようになってきました。

「才能が欲しい」と言いましたが、私にではなく、息子に与えるとは・・・・

昔話を書いてしまいました、今日は見直す時間がないので、このまま掲載してしまいます。

それでは、また

音楽家になるためには

今日は息子のピアノ練習中にピアニストと、コンクール優勝者との違いを話し合った。

なぜ、そんなことを話したのかといえば、仕事としてピアノを弾ける人と、そうでないひとの違いをきちんと理解してもらうためである。

音楽でお金をもらうということは、どういうことか。

コンクールで優秀すれば、お金がもらえるのか?

否、それは違うことを伝えた。

技術があれば、確かに、お金をもらえる可能性はある。しかし、仕事として、音楽を奏でるのであれば、お客さんが望むものを演奏したり、創らねばならない。コンクールの優勝が宣伝になるのは、短期間であろう。

たいていのピアニストは有名音大を出れば、ピアニストになれると勘違いしたまま、音楽大学に行き、技術だけを学び、サービス精神、音楽を提供する人としての、心構えを持たないまま、卒業して、本当の意味でのピアニストになることはない。

技術がある、上手い。それだけでは、根本的に間違っているのである。

料理人を見れば明らかだ。

技術力があり、高額な値段を得ようとする料理人は大衆には受けない。

ファミリーレストラン、回転寿司、外食産業が提供するものは、どれも実は技術を求めているものではなかったりする。

確かに高級料理を望む一部の富裕層もいるが、数は圧倒的に少ないのだ。

これが、音楽にも当てはまるのだ。

お客さんが望むものを提供できるか。

その時代にマッチすれば、アイドルのように稼げる音楽家にもなれるかもしれない。

シンガーソングライターで、稼げるかもしれない。

しかし、そうでなければ、CM,ゲームやアニメに音楽を提供したり、結婚式やホテルで演奏することになる。

いずれにしても、お客が望むものを瞬時に提供できなければ、音楽家としては誰もお金を払ってはくれないのである。

技術力があることで、知名度はあがるが、それだけでは、はっきりいってお金はもらえない。トーク力も必要であったりする。

一般の人に音楽をどうすれば聴いてもらえるか、そこに自分をどうのせることができるのか、そのような試行錯誤を続けることで、一部の人は音楽家になることができるだろう。

しかし、大半は、生活できずに、音楽家にはなれない。

ピアノの先生、教授などをしながら、たまに演奏会をひらいて、他のピアニストの真似事をする程度で終る。

だからこそ、ピアニストは茨の道であり、普通にやっても到達できない、職業なのである。

そもそも、バッハですらそれほど稼げていないし、芸術家は死後評価されることの方が多いのである。

それでも、続ける。続けてしまう、やめられない。そんな人にしか、その道が開かれることはないのであろう。

好きこそ物の上手なれ

これは小学校1年生の頃の息子のピアノ発表会の演奏です。当時は、まだ、電子ピアノでした。

いやぁ、恥ずかしい。自分の息子の演奏だけど恥ずかしい演奏ですね。

この頃は、好きな曲は弾けないということで、発表会の曲は、良くわからないと息子は言っていたと思います。

先生に、この曲は無邪気で、全然、息子が無邪気じゃないので、意味わからないよねって言われてて、当時教室につれてかれて走り回っていた弟のような子供を無邪気って言うんだよって先生に言われたりしていたのを思い出します。

そういえば、このとき先生が変わったばかりで、出会って半年も経っていなかったので、先生との信頼関係も薄かった気がします。

実際に、こんなにも弾けるんだって、先生に驚かれた2年生の終わりまでは、普通のおけいこだったので、この頃は、誰もあまり気にしていなかったピアノのおけいこでした。

ただ、絶対音感はあるよね!ってわかりはじめた時期でもありました。

こんなへたっぴだった子供でも、好きで続ければ上達はしていき、今ではコンクールでも入賞できるようになりました。

ピアノを習っている皆さんも自分を信じてがんばってくださいね。

電子ピアノはピアノではない ピアノの音を再生する機械である

皆さん、こんにちは

最近、Yahoo!知恵袋でピアノカテゴリーの質問に、ピアノと共に歩む息子との歩みの中でピアノについて学んだ経験から回答を書くことが多いのですが、そのテーマの中でよくあるのが

子供に電子ピアノを買おうと思うのですが、どんなのがいいのですか?

というものだ

これは私も経験したことだから、つい力をいれて回答してしまうのであるが、

全部の電子ピアノはおすすめではないのである。

家のスペースの問題、騒音の問題、定期的な調律、ピアノという楽器は面倒なものである

であるが、電子ピアノは楽器ではない

自ら音を発しないのだから、スピーカーから音を再生する「マシン」なのである。

もちろん電子ピアノはピアノの音はする。だが、ピアノの音を再生しているにすぎない、それも常に1色の音でしかないのである。

人間でたとえるなら、ロボットと人間くらいの違いがある。あらかじめプログラムされた動きをする人型ロボット。AIを積んで無限の可能性を秘めたロボットなら、まだ、ましかもしれない。けれど、ワンパターンのロボットならすぐに飽きてしまうだろう。それが今の電子ピアノだ。

無限にピアノの音をサンプリングをして、AIを積んで、ピアノ音をシミュレートすれば、電子ピアノももしかしたら、生ピアノのような表現力を持つことも可能かもしれないが、今現在はそのような方向の製品が存在しない。

どんなに、アップライトピアノの構造をとったとしても弦が鳴らない時点で、ピアノではなくなってしまっている。アップライトっぽいタッチの電子ピアノでも、アナログならではの変化を学ぶことができないのが、現状だ。

子供にピアノを習わせるなら、絶対に電子ピアノはNGだ。

うちの子は練習しないから、いいの。とか、お稽古だから。というのであれば、電子ピアノでもいいかもしれない。でも、それなら、いっそのこと、ピアノを習うこともないだろう

電子ピアノを買っていいのは、子供の頃に生ピアノを使い、きちんとしたタッチがわかっている大人だけだど、私は考えている。

電子ピアノと名前をつけたことがそもそも間違いだろう。ピアノキーボードと名称を変更したほうがいいだろう。あくまでもキーボードなのだから。

 

ピアノが上手いだけでピアニストになれるのか

先日、題名のない音楽会に出演していたピアニスト「ラン・ラン」氏について、以前どこかで演奏を聞いていたことがあったかもしれませんが、とんでもない人物であることがわかりました。。

もちろん、ご存知の方にとっては当たり前なのだと思いますが、私は知らなかったので、すみません。。反省します。

何が凄いかと言うとですね。

なんと!メタリカと共演してるんです

メタリカって言ったらですよ、クラシックとは真逆であり、決して上品ではなく、大変下品な私のような不良が好む、ヘビーメタル界の重鎮中の重鎮ですよ。

題名のない音楽中に、ラン・ラン氏が語っていた言葉「ピアノは何のためにやっているんだ」とアメリカに留学した時の先生に聞かれた時「コンクールで1位をとるためだ」と答えたそうですが、先生は「音楽は楽しむためにあるのでは?」とその時から、ラン•ラン氏は

「ピアノは楽しく演奏していいんだ」

と人生を変えるきっかけになったと語っておりました。その出会いがなければ、クラシックのピアニストが、メタリカと共演するなんてありえないですね。

ピアノの先生の中には、クラシック以外の音楽を認めない人もいるとは思いますが、まったく真逆の精神で演奏を楽しむのが、本来だと私も思います。

クラシックはあくまでも音楽のジャンルでしかないわけですから。

さて、このラン・ラン氏について、他の動画を見ていて気づいて聞かことがありますが、何と言っても有り余る、個性というか、自由さを持っていきがします。

レッスンビデオなどを見ているとわかると思いますが。

どうでしょう。Tシャツでラフな先生。どれだけ自由なんでしょうか(笑

クラシックとは、こうでなければいけないと固執すればするほどに、変化のないつまらない音楽になってしまっているのではないかと、私は思っています。

私も息子のレッスンを共に過ごすことで、ピアノとはどのように弾くものかを正しく理解してきたこともあり、ようやく、同じ曲を、何にものピアニストで聴き比べ、演奏の違いをわかることもできるようになり、クラシックの音楽の深みを味わえるようになってきた気もしますが、ラン・ラン氏のような自由なスタイルからなら、特に楽器に精通しなくても、わかりやすく楽しめる気がするのです。

エネルギッシュで無駄がなく、的確に、ユーモアを交えながらピアノを教える。演奏する。

ここまでくると、ピアノが弾けるのは当たり前で、それ以上のものを感じます。

日本に同じようなピアニストがいるかと問われれば、とても誰も真似できない気がします。

テレビに出演の多い、トークの得意な演奏家は、あえて名前を挙げませんが、多数いるとは思いますがどれも、演奏の方は、最高ではない気がします。

今回、ラン・ラン氏がスーパースターであることを初めて知った私でしたか、しばらくは注目のピアニストとして目が離せない感じです。