ピアノを弾くのと芸術的に演奏することの違い

ピアノを弾くことに関して、私はこれはもう弾ける。あっちのほうが難しいから、チャレンジする。

といった視点で語られることがあるが、はっきりいってこれはナンセンスである。

楽曲は楽曲として、作曲者がおり、イメージしている世界がある。その世界を再現することに関して、終わりはないし、単純なフレーズでさえ、簡単ということは永遠にないのである。

では、なぜ多くの人がこのような、勘違いを起こすのかと問われれば、結局のところ

芸術は、HSPという1/5未満の人間にしか理解できないし、創ることができないからである

と、私は感じている。

ショパンをはじめとした音楽家、ピカソやゴッホをはじめとした画家、どちらにおいても、どんな作品もすぐに理解できる人などほとんどいない。

ピカソは別として、ゴッホなどは、死後に公開され評価されるなど、死ぬ前に評価される芸術家は圧倒的に少ないのである。

これはなぜかと問われれば、圧倒的多数の非HSPによって、見た瞬間・聴いた瞬間によくわからないと排除されるからであろう。

多くの人=4/5の非HSPが、多数決的に評価をすれば、新しく創造されたものはすべて評価されない。

ショパンは、小さくてよく聞き取れない。ピカソはへんてこ。そのように解釈をする。

では、なぜ、その後で評価されるのかと問われれば、これもHSPが関わる。1/5しかいないHSPが、なぜ、そのような作品を作っているのかを考える。そして、理由がわかる。

そこから、またたくまに、作者が表現したかったことの理解がすすみ、世に広まるのである。HSPが創った作品を理解できるのも、またHSPなのである。

このような視点で、ピアノ演奏を見てみた場合も、「A曲とB曲、どっちが難しいですか?」とか、「もう弾けるようになったので、別の曲」とか、言うのは非HSPであり、HSPであれば、何かしら、次の課題が残っているが、それでも次の課題曲を渡されたので、しかたなく、次の曲を始めることが多いはずである。

そして、またもとの曲を弾く時に、残っていた課題ができれば感動、できなければ、内省をするのである。

HSPでなければピアノを芸術的に弾けないということはないが、深く演奏するためには先生を含めた内省の機会、また、HSPの関与が絶対に必要である。HSPがいなくても、なんども飽きずに同じ曲が、この完成で本当にいいのか?作者は、なにを考えていたのか?この表現が、彼が考えたことを表現することになっているのだろうか。との再検証で、細部をよりきめ細かくして、初めて、演奏が芸術的になるのである。

指が動くようになれば、終わり。というのが、多くのおけいこピアノプレイヤーであり、芸術家にはおわりがないはずである。

料理のたまご焼きでさえも、簡単という答えをする人もいれば、究極を求め、鳥の種類、生産地、温度、加える調味料の量、調理道具、加熱のタイミングをすべて、細かく正解を探し、究極を探しつづける人もいる。

弾けることと、芸術的に演奏できるようになることとは、まったく違う感覚なのである。

そして、多くの人はこれができない。そしてそれは考え方、脳の思考パターンによるところがある。そして、そこには内省型のHSPか、外にエネルギーを求める非HSPかによる。

しかし、非HSPであっても、それを理解し、正しく指導してくれる人に囲まれれば、問題ないだけではなく、非HSPだからこその、人に伝える技術で、芸術をより広められる人物になるというのは、メリットとして残る。

HSPかそうで、そうでないかで、芸術が理解できるかできないかを私は書いたわけではなく、芸術を深く楽しむ時間をもてるかどうかが結局は鍵なのである。

弾けるようになっておしまいにしていた人は、そうではなく、もっとよい演奏をするにはどうしたらいいかを考える人間もいるんだな、ということを理解をし、芸術がわからないなら知っている人に聞く(という能力は非HSPの方が簡単にできるのだから)、そのように動けば、芸術は磨かれるといことである。

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