ソルフェージュの独学企画はボツになりそうだ

今日から息子とソルフェージュの独学企画をやっていこうと考えていたわけですが、今の息子のレベルを確かめようとソルフェージュの課題を一つ一つ試したんですね。

するとですよ。

一番難しいかなぁと思っていた、新曲視唱をやらせてみても、数秒全体を見た後で、普通にドレミで歌い始めた。おい、はじめてなのか?

ドレミの音階だけじゃなく、クレッシェンドも、休符ももちろん理解して表現して歌いやがるのだ。。。はじめてじゃないのか?そもそも課題曲として事前に渡され、覚えてくるはずの曲を新曲視聴でやらせたわけだけれども、おそらくこれよりも本番の新曲視唱の課題譜は簡単なはずで、それをいきなりできてしまうのである。3連譜などがあれば、もうちょっと難しいだろうが、中学入試レベルなので、それがないのである。というか、あったところ、すでにできそうなのである。

次に、旋律聴音なのであるが、2回聞けばほぼOKで、3回聞けば、もう見直しタイムなのである。音大レベルの聴音のテストでも、全体1-前半3-全体1-後半3-全体1の8回も聴けるということなので、かなり上級の問題であっても、すでに余力がありそうなのだ。

ちなみに、複旋律聴音、和声聴音については、入試では出題されないようだが、これくらいでも独学で、やれそうなのである。

うちの息子は、音楽が好きだ。というか異常なくらいできる。おそらくソナチネ・ソナタを譜面どおりに弾けるというのは、これくらいのソルフェージュは当たり前ということなのだという気がする。おそろしい。

あまりにも息子には簡単にみえるので、ソルフェージュが本当にこんなレベルなのか疑いを持ってきてしまい、YouTubeで掲載されていた、ソルフェージュ教室の動画をいくつか視聴してみても、息子は生徒の音階のズレをすぐに指摘するし、大人の教室のレベルを見ても、これくらいだと簡単とか言う始末なのだ。

つまり、私がソルフェージュの独学を息子に課すまでも無く、息子は日々の練習の中で、ソルフェージュを独学でやっていたのである。

そもそもだ、車で旅行するときなど、絶対音感が本当にあるのかわからないけど、とりあえず音階で歌わせたりしていたことを思い出した。「いきものがたり」のポップスを歌ったり、好きなアニメの主題歌を歌ったりしていてすごいなぁと思ったし、どうしてそんなに早口でドレミを言えるのかというくらいの速さで、親の出す理不尽な依頼をこなしていたのだ。もちろんシャープやフラットがあれば、それ込みで、早口で音階をいいながら歌えていたのである。

ソルフェージュのテストをやってみたことで、以前から、すげーと思ったけど、ほんとすげーんだなぁと再確認することになっただけだった。

おそらくだ音楽に無縁だった子供を無理やり音大にいかせようと努力すると莫大なお金がかかるのだろうか。しかしだ、そもそもの素質があり、3歳くらいから音楽大好きな子は、勝手にやれるんじゃないかという気さえしてしまうのである。

週30分のレッスンで、あとはすべて自宅のピアノ自習だけでここまできたのだ。

まぁ、まずは中学入試で本当にできるのか試してみてから、ここら辺の結論はだしたいところである。

今日は、これ俺の子か?と思うくらいのできにびっくりした。

息子が音楽の先生に怒られて落ち込んだ話

先日、中学校の説明会に参加したことを書いたが、会場に30分も前に到着してしまったため、家族で雑談をしていたのであるが、小5の息子が急に泣き出したのである。

感受性が強く、HSPの性格なので、まぁ、こんなことは普通だ。

最初は嫌がって話そうとしなかったが、やんわりと内容を引き出して、語ったところ、学校の音楽の授業中に、楽譜の書き取りのようなもの?(おそらく聴音のようなもの)があり、まわりの子を手伝ってしまって、担当の先生から、強く「手伝うな」と怒られたようなのである。

にらみつけられた顔が、怖かったと言っていた。(音楽の先生の顔ってそんなに怖くなるのか?)

たぶん息子は簡単な聴音なら普通にできてしまうから、やさしさのあまり親切心で友達を手伝ってしまったのだろう。

その時私は、息子にこう言った。

学校という場所では、他人を手伝ってはいけないが、社会に出たら手伝うのが普通なのである。今は、先生からまわりを手伝うことで怒られることがあっても、いずれは手伝うのが当たり前の世界になるから、それほど気にしなくていい。

先生は、個人の能力を高める学校の世界のルールに従わなければいけない立場だから、手伝わないように指導するが、社会ではそうではない。

それほど、気にすることはない。

と。

息子が納得したかはわからなかったが、息子なりに理解はできたようであった。

学校という世界・学問の世界は特殊で、協調・協力というのがあまり望まれない。これは事実だと思う。学校では協力してテストもやらないし、協力して問題を解いたらカンニングだ。

しかし、実際、世の中の課題を解くときは、ひとりでなんてのは聞いたことはなく、企業という組織だったり、共同研究だったり、もちろん政府だったり、いつもさまざまな集団であるのだ。リーダーは当然いるが、それを支えるサポートメンバーが必ずいる。

そういった視点が、学校の先生には、あまりないのだろう。もちろん、他人に助けてもらったら、勉強にならないからだという理屈はよくわかる。

大学を卒業して、そのまま学校の先生になってしまった人は、社会との接点が少なく、世間の現実は生徒やその親との関わりあいの中で感じる程度であろう。だから、先生がそう強く言ってしまうのも、致し方ない部分はあるであろう。

しかし、私の息子のようなHSPの性格を持つ生徒には、このようなしかり方は無慈悲であるのだ。だからこそ、こういう場面が、人数の多い公立中学校に行かせたくなくない理由として、私が感じる部分なのである。

いつも「困っている人を助けましょう」と指導している学校で、困ってる人を助けたら怒られるのだから、子供はゆがむのである。

そこの割り切りや、先生は子供へもっと説明や配慮が必要だと感じる次第である。圧倒的に、足りないではないか。

HSP側にいれば、そこらへんの理解が可能であるだろうが、非HSPの先生側は、それがわからないのだろう。でも、もういいかげん気づいて欲しいところまできていると思う次第である。

ソルフェージュ学習を独学で始めてみる

(これは個人のブログです、内容については、保証しません!ご了承ください)

私は高校受験でのデビューだったので、そもそも息子の中学受験は考えてこなかったのですが、先日上野学園中学校を見学し、特待生枠があるのを知り、それ(学費が安くなる)だったら通わせてもいいと息子に伝えていたのですが、今週すでに宿題だけではなく、追加で買った国語と算数のドリルをきちんとやっているようなので、親はまだ「ゆるーい」気持ちですが、ソルフェージュもやっとかないとねということで、親も具体的に検討を始めました。

そもそもうちの長男は、塾に行かずとも都内の平均点を超える点数をとるのですが、その超えてる子供同士が争うのが受験なので、私は無駄を感じ、費用のかからない独学での受験を課すわけです。

無駄と言うのは、ほんのちょっとの差のために、塾に行く時間をとられ、生活の余裕がなくなるのが生きづらいということですね。(ちなみに次男がおり、そちらは平均点以下なので、そちらはそちらで別の苦労してますよ、あしからず)

また、もし私立に行くことになっちゃっても、最近は収入が少ないと私立高校の無償化の話もあるので、家庭の収入が落ちても私立はありかもと保険的に思う思いもあります。

さて、ソルフェージュ学習の話に戻します。まず、どう考えても現状プロになるような状況ではないので、「桐朋の子供のための音楽教室」のような所で学ぶのはないだろうと思い至ってます。(そもそもあそこも「特待」で行くような子だけがプロになれる可能性がある気がする)

で、地元のソルフェージュ屋を探してみたのですが、どれも車じゃないと通えない距離なんですよね。思いが強いなら、通えという親もいるでしょうが、それは無駄と考えます。だめになったときに、あんなに投資したのにって側になっちゃいます。ということで、ソルフェージュ屋は止めました。

いま通っているピアノ教室に相談してみるというのがありますが、ただ、これも追加費用もしくは、強いやる気があるように見られるのも嫌なので、タイミングは慎重に検討中です。

ここまで来て、気づきました。結局音大めざすなら、あれやこれやとか、そんなのはいらんのです、私の視点ではね、という自分の気持ちがハッキリしました。

とまぁ、いくつか考えてみたのですが、調べてみるとオンラインでの情報も増えてきていますし、音楽は趣味だからなのでしょう、先輩たち・ネット発信者が増えているという感じでなのです。教材も身近で手に入るようになってきたので、大学受験までやったような親なら独学で指導できそうだと思えてきたので、独学でやってみようという思いになりました。

また、そのこと自体をブログの記事にしてみたいなぁと思いに至りました。
(もしできちゃったら、おもしろいでしょ!けど、できたらできたで、ピアノ教室通ってたんだから独学じゃねーだろって言うやつもいるかもしれませんが。。)

そもそも落ちたってどうでもいいし、落ちるならそれまでの資質だったと結論もでていいじゃないですか(笑) 子供もすんなり納得しそうだし。(私の視点ですが)

もちろん独学というのは、専門教育者たちからみるとは、批判されるような事な気がしますが、音楽は、経済(お金)の問題=その投資額のリターンが見込めない、思いが強いので、独学に至っているわけなので、その点はご理解いただけると幸いかと思います。

ということで、独学ソルフェージュの話を、このブログでは新規のコンテンツとして扱っていきますが、結局、素人の思い込みが多分に含まれますし、学ぶのはこれからですから、当面うそっぱちも多分に含むと思いますので、そこらへんは、「ちがうよー」とやさしく教えていただけると幸いかと思っています。

なんか、知らないことやるのって、楽しいですね。ということで、いつまで続くかわからないですが、やっと演奏以外のコンテンツが、できそうなのでちょっとうれしくなってきました、ソルフェージュのメニューをとりあえず追加して、既にうれしい今です。

音大の被害者たちの悲鳴

(今回の内容は、個人的な意見ですので、読み物でしかなく、変な小説だと思って、読んでいただければと思います)

ネット情報をめぐっていると必ずでてくるのが、「ピアノではご飯は食えない」。決まり文句のの「音大出ても就職先はない」です。

これについては、なぜかと言えば、自分勝手な被害者が多数いるからだと思っています。
音大に投資したのに、リターンがないじゃないか!という投資の詐欺に似たような構図が伺えます。

おそらく多くの親御さんは、音大に行きさえすれば学校なのだから、将来ピアニストとは言わずともピアノの先生くらいにはなって、投資した額が少なからず戻ってくると思って投資をしたのでしょう。

しかし、現実はそんなことはなく、音大を出たのに就職もできず、何の役にも立たなかった、我々は被害者だから、時間と損した金返せということなのでしょうね。(勉強嫌いだったんでしょうが。。。)

そのような方は、医学部に行けば、誰もが医師免許を得て医者になれるとでも思っているのでしょう。

芸術も同じです。美大についても同様の問題はつきまといます。文学部も同じような気もします。

でも、その前に気づかなければいけないことがあるんだと思います。現実を見なければいけません。

はっきり言って、現実把握能力が足りなすぎます

医者だって大学に受かるまでに、何浪もする人がいます。家系が医者のために、10年かけてようやく医学部に受かり、医者になるひともいるくらいです。2年、3年と医学部を挑み、途中で諦める人も多数います。

弁護士免許を取るために大学を卒業してから何年も就職せずに勉強している弁護士の卵も多数います。

どの道もみんな簡単じゃない現実があります。

だから人生なんですけどね(この先は長くなるので書くのは止めておきましょう)
さて音楽に戻りましょう。

最近活躍しているクラシックの音楽家は、そもそも大学に入学する前にデビューをしていたりするものです。大学に行くまでに、どこかで優勝などの芽がでなかったのだとしたら、音大には絶対行くべきではないということでしょう。

なので、今は音大に行く前に、判断をすべきなんだと思います。

最近、ピアノやバイオリンは3歳から始めるような特殊な習い事になっているので、13歳~15歳で、すでにかなりの時間を練習していることになります。ライバルはそれが当たり前なのです。

大学のたった4年間で習得することよりも多くの時間を、その期間で確保し、練習してきたのですから、追いつかないほうがいたって普通です。

ですから、プロになるなら事実上「音大」は不要になっているんだと思います。

音大進学については、楽器を始めたのが遅いことを考慮しても、遅くとも17歳までに芽が出ていた子だけが、家庭の経済事情や自身の覚悟をもって慎重に検討するようなものなんだということです。

音大に入る試験なんて、あってないような子供達じゃなきゃ、演奏家にはなれないということでもあるでしょう。(つまり、結局プロになるのに、音大は必要ないとこまで先行教育で来ちゃってるということなんでしょう)

今の時代、小学生の途中から楽器を始めても、ピアノやバイオリンのクラシックの演奏家の道は閉ざされていると言える気がします。

それ以外の楽器であれば、可能性もあるかもしれませんが、それでも、真剣な覚悟が必要です。基本は、それでも音大には行くべきではないでしょう。

落語やその他芸能、何にしても、簡単に「道」は究められるものではないということです。

どんなことでもそうですが、遊んでたら、何にもならないということです。

とまぁ、厳しい現実を書くのはここまでです。

ダメだったら諦めればいいんです、諦めれば、自然と道は開けてきたりもするものです。

どんな人にも、それぞれの個性と「とりえ」があるのものですから、ピアノや音楽がダメでも、その時できる、他のことを真剣に探して、やればいいのです。

仕事は、どんな仕事も、心さえしっかり持てば、楽しむことができるものです。

生きている限り、みんなが努力しているのですから、努力をしなければ、前に進まなければいけないのです。でも、前に進めば、つらくとも見えてくるものは、必ずあるはずなのです。

一見幸せそうな人も、みな苦労をして、毎日を進んでいるのが現実だということが、わかる時がくるでしょう。難しいことをやる必要はなく、やれることを怠ることなく、しっかりやればいいのです。

良い演奏:普通のことが本当に普通にできているか?

習い事に限らず勉強でもそうですが、「私は、中学1年で中学2年の勉強をしている」とか、「大学レベルの勉強をしている」とか、学習進度でまわりに誉めてもらいたい生徒がいたりします。

私はチェルニー30,40番を小学生の低学年でやってたとか、ソナタをやってたとかですね。
(でも、中身はどんな演奏だったの?)

また、よく見る「神童」という言葉が、そもそも宣伝のための文句として使われ始めたように、
メディア露出する際には、売るための宣伝文句や話題性のある枕詞が多用されることに影響され、「誉めてもらいたい何か」を子供達が欲しがるのも仕方ないとおもいます。

しかし、長年生きてきた私は「すごい」と宣伝されるもの程、実は深みがなく、長い時間普通に行われていることにこそ、気づかなかった本当の価値があることを発見することが最近多いと感じています。

普通のことが普通にできること、それがいかにすばらしいのか気づかされるのです。

ソナチネであろうがソナタであろうが、心にグッとくる演奏はグッとくるのです。
グッとくる演奏をするためにやらなければならない「普通のこと」が毎日のどんな練習の中にもあるということなのでしょう。

どんな曲にも終わりはなく、アップデートは、常に必要ということでもあります。

実際、うちの息子にピアノを習い始めた頃に弾いていた曲「りっちゃんの飛行機」を、今もたまに弾かせるのですが、いまだに私が満足する演奏で弾いてくれたことは、一度もありません(笑) 今は、ソナタを練習しているのにです。

うちの息子の一つ上の学年に、小さい頃からよく指の回る娘さんがいました。「きらきら星変奏曲」を小4の発表会で勢いよく弾いていました。

当時の私は、ピアノの音色に関しての理解が不十分でしたから、その桁違いによく回るその指にとても驚いたものでした。しかし、そのお子さんの親御さん曰く、「音がよくない。むしろうちの息子の方が、音がきれい(?)」と言われていたのです。

ご冗談でしょう・・・「うちの息子は、それくらいしか褒めるとこないんだな。。」と思っていました。この時の私は「音がきれいって、どういうこと?」という状態だったのです。

しかし、最近になってその理解が私もできるようになってきました。ピアノの練習をしなくても、ピアノ曲を何度も聴いていくうちに素人だった私も耳が変わってきたのでしょう。(と思いたい)

ピアノは音を出してから消すまでの操作を体全体で行う楽器です。指の動きだけでなく足の操作があります。しっかり音を出せば良いわけではなく、テンポだってメトロノームに合わせてきっちり弾くのが正解でもなく、まるで一人オーケストラのように、左手・右手・腕、両足で、音をコントロールし、すべての音を演奏者の支配下に置いて「聞き手の心」に何か印象を与える空間(音場)を作ることができるかが、「求めるもの」なのです。

つまり、ピアノは、あくまで「その空間」をつくるための道具であり、それを「魔術的」に形成できた時、その演奏がすばらしいということなのです。(と感じます)

難しい曲をミスなく弾ききることは、すごいことではあるのですが、どこか心に響くものがないと結局印象に残らないのです。そもそもクラシックを聞くことが普通ではない日本では、普通に弾いていたら、なおさら響かないのということなのだろうと思います。(かといって、先生にだけに届く、やりすぎな表現も素人にはよくわからなかったりするわけですが)

まわりいn進度の速い子供がいることで焦ることもあるでしょうが、その必要はなく、今やっている曲で、いかに日々学んでいるか。これが結局、どの人にも当てはまるのだなぁと、日々感じるので、今回はそれを記載してみました。

参考になれば幸いです。

上野学園中学校の説明会に参加してきました

昨日、上野学園中学校の説明会に参加してきました。

事前のネット情報を見る限り、学力は特に求められているわけではなく、通学できる範囲であることと音楽科があることに興味を持ち、無料なので、とりあえず参加してきたという感じでした。

息子がピアノを習っているわけですが、ピアニスト業だけ成功するような人はそもそもいないというような状況なのは、言わずもがなです。ですが、ピアノが好きという気持ちはあるので、学校の先生になる・ピアノ教室で食っていこうとの考えが続いたとしても可能性が残り、逆に数年後、音楽に関する仕事で絶対食えるわけなんてないという確信が起きたとしても、勉強が続けられることのできるようなカリキュラムの学校がいいだろうという思いがあります。

さて、その上野学園中学校の説明会ですが、テスト1ヶ月前ということで、小学校6年生向けの内容となり、「勉強お疲れ様、当日はがんばってください」というようなメッセージが語られる中、うちは小5で、参加していました。

校長のあいさつで人柄が良さそうであることや、学校の指針がよくまとめられたプレゼンを知るに、さすが私立だと思いました。基本的には、勉強中心であるが、少人数、音楽は普通科でもやるなど、音楽科を持つ学校としてのは出ていました。しかし、某中高一貫の都立中額の説明会でも教育指針については、同じような「グローバル」「プレゼン」重視の方向性の説明を受けていたこともあり、違いは設備の良さかなぁ?という個人的な印象が残りました。

生徒人数の推移を知るに、人気がなくなる傾向にあり、それが課題だと気づいているのではないか?何かしら変化をしないといけないような状況があるのでは?つまり、だからこそ最近、コースの改正がおこなわれたという気がしました。でも、これを私はデメリットとは思っていません、変化が必要なときにはその変化に対応しなくてはいけないし、そのことでの学内団結や動きが、起きるだろうと思うからですね。

実際に、構内で出会った生徒さんの雰囲気については、悪くなく、自由さを感じました。都立一貫高の生徒はエリートな雰囲気、つまり挨拶にしても言わされている?言わなくちゃいけない?ような状況で、演じている雰囲気がありました。(私はそのような演じる雰囲気を知っているから、勝手に感じただけなので、誰もが必ずしもそう感じるかはわかりませんので、あくまで参考としてください)

さて、区立、都立と上野学園とで、メリットについて考えてみたいと思います。ただし、項目や評価は、あくまで私の視点ですので、参考にしないでください。

通学時間 公:10分 上:30分 都:45分超
部活          公:必須 上:任意 都:必須
生徒数  公:多  上:少  都:多
設備   公:普通 上:良    都:普通
運動   公:普通 上:低  都:普通
音楽科  公:なし    上:良  都:なし
課外活動 公:普通   上:良       都:良
学費          公:安  上:高       都:安
・・・公→近所の区立中学、上→上野学園、都→中高一貫某都立

音楽を学べるというメリットがあるので、上野学園はそのアドバンテージがありますが、学費は圧倒的です、ただし、特待生として通えるのであれば、その部分はデメリットでなくなってきます。

一方、人気が一番高い中高一貫の都立は、なによりも通学時間が長すぎます。

個人的な意見ですが、私は高校が1時間~1時間半の圏内最高レベルの高校に通っていましたが、通学の時間は無駄にしか感じなかった記憶が残っています。また、勉強というのは、一人の勉強時間を作ることが大事なのがわかっているので、先生の指導能力で強く補えるものでもありません。

今のところの人気は無いが、上野学園中学校は、我が家にとって選択肢としてなくはないという結論に至りました。

ということで、頭が、音楽科のある中学校について、前向きになってきたので、もういちど音楽科のある中学校に通うことの必要性について、今後も調べていこうかと思いました。

まぁ、そもそも食えない、食えないってネットで言われる音楽に、ちょっと異常さを感じてますが、音楽や芸術は、標準の人はまったく食えないが、勉強は、標準の人もどうにか食えるという違いが確かにあるので、これはしかたなしと感じています。

ただ、ITとAI(人工知能)の利用の進化下では、どちらの標準でも食えなくなる未来を示唆していると思うのですが・・・

地区本選会の課題曲が決まる

コンクールの課題曲が何になるか、生徒が決めるわけではないので、冬休の間に「何になるんだろうね」って話し合ってきたのであるが、本日のピアノ教室で決定した。

課題曲は、これとなった。

はっきり言うと、これまでの発表曲でやった楽曲に比べるとやさしい曲なのである。

しかしだ、簡単な曲だからこその表現力を求められることがわかるのだ。楽曲が、やさしくなれば、なるほどに、皆が普通に弾けるからこそ、基本となる音色やメロディー、音楽としての表現力など、そもそもの楽曲の理解が、問われるのは確実なのだ。

いまいちど、タッチについて見直さないといけないかなと、先ほど息子と話し合ったところである。

グランドピアノを買わないといけない理由

河合楽器のおもちゃのピアノから始まった、わたしの息子のピアノおけいこですが、グランドピアノなんて、家の一室がピアノになってしまうから邪魔だから一生買うとか思うことは無いだろうなぁと思っていたわけですが、今は、いつグランドに切り替えないとダメになるか、今か今かと、考えている日々がありますので、そのことを書いておこうと思い記録します。

ピアノを弾いたことのない人間からしたら、電子ピアノもピアノでしょ!?って思うと思いますし、キーボードでもいいじゃんと思うんです。だって、私もそう思っていたんですから。ですが、今は、まったくもって、生ピアノじゃなきゃダメだということを、理解するに至っています。

じゃあどこがダメなのか?

アナログは無限であり、デジタルは有限なのである

今でこそスマホのカメラで、きれいに写真を撮ることができるのですが、一昔前は、デジタルカメラなんて、プロには使い物にならないという時代があったことを覚えていないでしょうか?絵の色をデジタル数で表す画素数があるわけですが、これがものすごく増えたことで、色のバリエーションが増えて、いつしか、デジカメがアナログと同等、あるいは加工のしやすさから、デジカメが今はあたりまえなわけですが、この進化が電子ピアノにはないのです。(ファミコン画質が、PS4までの間で劇的に変わっているような変化です。)

デジタルカメラは、今は21メガピクセル超とかいう色の変化をもっているからこその表現力をもつわけですが、電子ピアノはそのような進化をしていません。電子ピアノは、名器とよばれるスタンウェイなどの音を録音したものを、電子的に再生しているだけであり、その音を、大きくするか小さくするかという表現しか、基本的にはないと感じられます(※筆者は構造に詳しくないのですが、楽器の説明からはそのように受け取れます)

また、ペダルを使ったときの踏み込みの変化が電子ピアノでは再現されていないと感じますし、木工製品だからこその、ゆがみ的なもの、木だからこそのくせのようなものが、電子ピアノでは習得することができません。弦をたたくのではなくて、スイッチを押すのが電子ピアノですから、残念ながら電子ピアノが、生ピアノの表現力を手に入れるには、構造的な改革をしない限り無理と考えられます。が、それをやるとすれば大きな研究開発費用が発生しますから、ピアノの需要状況を考えても、実現は難しく、できても値段が高価で事業として成り立つようなものではない気がします。

なら、生ピアノの方がいい(安い)というわけです。キーボードから電子ピアノへの移行を考えているのであれば、ピアノは絶対に趣味でしかやらないという判断をしない限りは、やめるべきです。

アップライトピアノの限界

アップライトピアノは、自動車であれば軽自動車という表現がなされているのを見たことがありますが、これはかなり的確な表現だと思います。普段の練習であれば、軽自動車でもいいのですが、大勢を乗せるのであれば、大型バスというわけです。アップライトピアノが軽自動車ならば、大型バスは、フルコンと呼ばれる、1台2000万円超のグランドピアノというわけです。

では、軽自動車でピアノの練習はできないのか?というと、これはできるといっていいと私は思っています。音大を目指すとか、演奏家を目指すなら、早めにグランドピアノというのは、確かに理解できます。しかし、それを車の世界に当てはめるなら、庭にサーキット場をつくって、最初からF1マシンで練習をするような感じでしょうか。

プロのレーサーもカートからスタートするわけですから、ピアノの練習であっても、アップライトピアノでも可能だと思います。

しかし、アップライトにも限界があります。どこにでてくるかというと、まずは、トリルにでてきます。鍵盤を押した(叩いた)後の戻りのスピードが、重力を利用しているために構造上シーソーのようなグランドピアノの方が早いというわけなんですね。

トリルを多用し始めるのはソナチネくらいからですから、それまでにはグランドという考え方もありますが、かといって、高速なものでなければ、アップライトピアノでもカバーができます。しかし、メトロノームのテンポを上げて高速なトリルを美しく奏でるということを、意識したあたりから、アップライトピアノの限界が見え始めます。

息子の場合も、今のところはトリルでの限界は見えていないのですが、気になることがありました。ピアノを打鍵した後の、指を戻す「癖」に関する懸念です。

白鍵や黒鍵を引いた後に、指を上に戻す力の加減の感覚的なものが、アップライトとグランドピアノの練習で違ってくるのではないか。おそらくかなり微妙な加減ではあるが。

アップライトよりもグランドピアノの方が、指を上げてくれる力が強いとなると、弾いた後に自動的に指が戻ってくれる感覚をグランドピアノでは持つのではないか。

アップライトだと、

音を出す – 指を上げて – 次の音を出す – 指を上げて – 次の音を出す

グランドピアノだと、

音を出す –  (そのまま) –  次の音を出す –   (そのまま) – 次の音を出す

上記のような癖が、残ってしまうのではないかという、疑いが今あります。

とはいえ、昔はポケベルを使ってた人が、ガラケーをもって、スマホへ移行とすんなりいけてるように、昔はアップライトだった人も、すんなりグランドに移行できるような気もするので、これがグランドから練習しないといけない決定的な理由にはなるとは思いませんが、常に評価はグランドピアノを弾いている時に行われるので、その評価がマイナス的な印象につながってモチベーションの低下に影響してしまうことがあるのであれば、最初からグランドピアノということになる気がします。

グランドにしなければいけないと感じているところは、今のところこれだけなのですが、他にもあるはずなので、気づいたところで、このブログで書いていこうと思っています。

コンクールに使用されたピアノ・調律に関する疑問・提案

先日行われたコンクールの総評を聞いたのだけれども、その中で審査員が4人共に気になった「(本日の参加者)全体的に気軽にペダルを使いすぎ」という評価について少し違和感があったので、今回はそのメモを記しておこうと思います。

私はこれまで、3回も息子のコンクールに立ち会ってきたのですがが、ピアノペダルについての問題を指摘されたのは今回がはじめてでした。

私としては、うちの息子だけならともかく、全員がというのには違和感がありありだ。

審査員の大学非常勤講師いわく、ペダルの使用は「ソナチネ~ソナタ」あたりで始めて許される「機能」だというのであり、昔はペダルの使用を許されたことがうれしかったというようなものらしいのだ。最近のピアノ発表会の様子や、YouTubeなどでみても6歳くらいからペダルを使って演奏する子ども達が大勢いるし、ピアノ教室の先生も普通に「ペダルを使う」指導は行われている。

実際、うちの息子もソナチネあたりからペダルを使用し始めたが、そこまでの許可制を感じたことはない。

さて、問題のペダルに関してだが、続きがある

コンクールの演奏直後に、そのピアノ教室の担当の先生も、「ペダルがね・・・」とおっしゃっていた。

皆が口をそろえて「ペダル?」と言うのである。担当の先生がペダルの問題を言うことも、まれだったので、びっくりしたのだが、結果的に、総評でうちの息子だけではなく、全体的な課題として言われているのである。

なんかおかしくない?

最近日本のピアノ業界で、日本人のペダル苦手が「ホットトピック」なのだろうか?

でも、私には気になることがあった。以前、今回のコンクールで使用する会場のピアノは、
「X Japan」のYoshikiさん向けのチューニングがされているとその担当講師から聞いていたのである。

私は、これがすごく気になったのである。ピアノの調律に問題がなかったかを疑い始めていたのである。

何年も指摘されないことを、突然全体の課題として全体に向かって指摘するのだろうか?あるなら、前のコンクールの時も、言ってくれたっていいんじゃない?(私の疑問は消えない)

コンクールの審査委員は4人おり、確かにメインの外部審査員の変更があったのであるが、だからといって以前からいる残りの3人もペダルの問題の指摘が一致するものだろうか。

さらに、この話をその日聞いていた、祖母、妻に違和感がなかったか聞いてみたところだ。

「自分の息子の演奏の時には、気持ちが冷静じゃなかったので気にならなかったが、後半の演奏では何か変な音・響きを感じていた」というのである。二人ともだ。
(ちなみに当日私は、食べたものが問題で、腹痛によりまともじゃなかった)

これってば、調律・調整の問題じゃないのか?と思った次第である。

一時期FANというかXが好きだった私としては、カリスマとも言うべきYoshikiさんだからこそ特殊なことをやっていないだろうか?と疑問が沸いた。ペダルのチューニングに関して特殊なことをやっているのではないか、そんなことがありえる気がしてならなかった。

もともと、コンクールという音楽の競技会場において、小さなピアニスト達は、残念ながら当日使用するピアノの事前練習を許されることはなくいきなりその会場に準備してあるピアノを弾くことになるのである。大人のピアニストのコンクールであれば、事前に自分が弾くピアノを選ぶということもあるが、子供向けのコンクールでは、ほとんど実施されていないだろう。

この調律の問題が存在したかの疑問についての結論は、私のような参加者には永遠に検証ができないが、疑いが発生してしまったのだから、それへの対策っていうのは、あっていいはずと考える。私だけが、抱くものでもないだろう。

本来どうあるべきかを考えると、審査委員も調律後のピアノを試弾したり、調律に立ち会ったりというのが必要なのではないかと感じた。

「正しく演奏を評価をする」という立場であれば、競技に使われる道具がどのようなものなのかの事前にチェックするのも、仕事のひとつではないかと思う。特に、生ピアノなのだから、なおさらだ。

私は、今回の予選会では、そのチェックがなされていなかったと感じるし、これまでのコンクールでもそのようなチェックがされていた様子も伺えない。

でも、それも仕方がないのかもしれない。なぜならば、ピアノの調律は調律師に任せてしまっているからと考える。ピアニストが調律師に任せてしまっている以上、ピアニストだからといって、明確にピアノの状態を評価することはできないだろう。できる人もいるだろうが、全員ではないだろうし、扱っているピアノの数から見ても、調律師の方が評価はできるのではないのだろうか。

だとするなら、ピアノの調律を誰が担当するのかを公開した方が、より公平な気がする。

今回言いたかったことをまとめると、

コンクールは正しい評価をするために

・審査委員はピアノを当日確認してもらいたい
・調律状況を公開(担当者・状態)してもらいたい

ということである。やっているのであれば、伝わらないので、伝わるように公開でやるとか、何かしらの、しるしを明示してもらいたいと思うのである。

参加料(評価費用)を支払っているのであるのだから・・・正しく判断してもらいたいというのが、参加者側の気持ちだ。

今回は、ちょっと愚痴・苦情っぽい話題となってしまいましたが、音楽を競うという残酷なことをやるのであるからこそ、それに対する責任を持ってもらいたいと書いてみました。

「コンクールの落選者達を、努力不足」と言う立場にあるなら、最良の状況を作って、正しく評価をしてもらいたいと思う次第です。

新しい調律師の方に2度目の調律を行っていただきました

本日は、昨年お願いした調律師の方にアップライトピアノの調律を1年ぶりに実施していただきました。いくつかメモを残しておきたいとおもいます。

ピアノの状態の指摘

・チューニングの狂い
・アップライトだからのねじの緩み

1年前に調律をした際には、強制的にリハビリをしてもらったわけですが、やっとどうにか、まともな状態になったという状態だそうです。といっても、私が弾いた感じでもかなり良い状態だと思えるので、最良の状態ってどんなだろうという感じです。2時間くらいは調整していただいてました。

いつもレンタルでつかっているグランドピアノと弾いた感じを比べてみても、調律後の自宅のピアノの方が音がいいと感じてしまうので、調律師30年のベテランの腕前は、すごいもんだなぁと思いました。

こぼれ話

・店員の給料は20万円いかない
・音楽は飯を食うのは厳しい
・演奏家は絶対に先生もやらないと食っていけないというか、学校の先生がやはり安定して、生きるなら一番いい
・腕を磨きたいなら桐朋に通う
・ヴァイオリン(弦楽器)をやる人程家柄がいいことが多い
・調律師はバブル期は年150人とか生まれたが、今は年30人くらいで、女性ばかり

国産のピアノは、新品を買う人が多く、中古が敬遠される状況なので、グランドピアノの国産品が、今は一番人気がないらしい。とはいっても、今の新品よりも木材の状態は良好なので、新品を買うくらいなら中古が圧倒的にお得であるとのこと。

金持ちであれば、スタインウェイを中古で買えば、資産価値が消えない=残るので、結果的に、一番お得とのこと。ブランド志向は消えることが無い。中古の外車に近い感じのようでした。