「クラシック」カテゴリーアーカイブ

小林愛実さんの新譜は4月4日

小林愛実

新譜のジェケットを見て「おぉ!」っておもいましたね。大人っぽくイメージチェンジを全面に出してきました

収録は下記となっております。

  • ショパン: ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 作品35
  • リスト:ペトラルカのソネット第47番、第104番、第123番(「巡礼の年第2年『イタリア』」より)
  • リスト:ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲(「巡礼の年第2年『イタリア』」より)
  • リスト:愛の夢第3番

ユーチューブで他の方が演奏されているものを並べておきます。

ショパン: ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 作品35

リスト:ペトラルカのソネット第47番、第104番

リスト:ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲

リスト:愛の夢第3番

進化を遂げた小林愛実が、ついにベールを脱ぐ時

上記のコメーシャルメッセージが、すごく気にさせます。私が買うかどうかは、まだ検討中ですね。

1838年2月24日に生まれたシューマン「トロイメライ」を追加しました

上記Wikipediaで作曲された日がわかる。シューマン「トロイメライ」を下記YouTuberの楽曲演奏ツールに追加しました。

YouTuberの演奏

ドイツのライプツィヒの現在の気温が気になったので、調べてみると5℃。私がいる日本も3℃。

ということで、今の私の状況とほぼ同じ寒空のした作られたということで、急に親近感が湧いてきました。とてもゆったりとしたペースで、寒いというよりは、寒さのピークを越え少しづつ春に近づいてくるようなイメージさえわきます。

子供の情景という放題ですから、あったかい薪の炎の前で、昔でも思い出してたんでしょうかね。そんな想像が湧いてしまいました。

この楽曲は、クラシックに興味がなくてもどこかで聞いたことのある、名曲です。だからこそ、たくさんのピアニストの演奏があります。

よろしければ、上記機能を使ってお試しください。

 

ピアノを弾くのと芸術的に演奏することの違い

ピアノを弾くことに関して、私はこれはもう弾ける。あっちのほうが難しいから、チャレンジする。

といった視点で語られることがあるが、はっきりいってこれはナンセンスである。

楽曲は楽曲として、作曲者がおり、イメージしている世界がある。その世界を再現することに関して、終わりはないし、単純なフレーズでさえ、簡単ということは永遠にないのである。

では、なぜ多くの人がこのような、勘違いを起こすのかと問われれば、結局のところ

芸術は、HSPという1/5未満の人間にしか理解できないし、創ることができないからである

と、私は感じている。

ショパンをはじめとした音楽家、ピカソやゴッホをはじめとした画家、どちらにおいても、どんな作品もすぐに理解できる人などほとんどいない。

ピカソは別として、ゴッホなどは、死後に公開され評価されるなど、死ぬ前に評価される芸術家は圧倒的に少ないのである。

これはなぜかと問われれば、圧倒的多数の非HSPによって、見た瞬間・聴いた瞬間によくわからないと排除されるからであろう。

多くの人=4/5の非HSPが、多数決的に評価をすれば、新しく創造されたものはすべて評価されない。

ショパンは、小さくてよく聞き取れない。ピカソはへんてこ。そのように解釈をする。

では、なぜ、その後で評価されるのかと問われれば、これもHSPが関わる。1/5しかいないHSPが、なぜ、そのような作品を作っているのかを考える。そして、理由がわかる。

そこから、またたくまに、作者が表現したかったことの理解がすすみ、世に広まるのである。HSPが創った作品を理解できるのも、またHSPなのである。

このような視点で、ピアノ演奏を見てみた場合も、「A曲とB曲、どっちが難しいですか?」とか、「もう弾けるようになったので、別の曲」とか、言うのは非HSPであり、HSPであれば、何かしら、次の課題が残っているが、それでも次の課題曲を渡されたので、しかたなく、次の曲を始めることが多いはずである。

そして、またもとの曲を弾く時に、残っていた課題ができれば感動、できなければ、内省をするのである。

HSPでなければピアノを芸術的に弾けないということはないが、深く演奏するためには先生を含めた内省の機会、また、HSPの関与が絶対に必要である。HSPがいなくても、なんども飽きずに同じ曲が、この完成で本当にいいのか?作者は、なにを考えていたのか?この表現が、彼が考えたことを表現することになっているのだろうか。との再検証で、細部をよりきめ細かくして、初めて、演奏が芸術的になるのである。

指が動くようになれば、終わり。というのが、多くのおけいこピアノプレイヤーであり、芸術家にはおわりがないはずである。

料理のたまご焼きでさえも、簡単という答えをする人もいれば、究極を求め、鳥の種類、生産地、温度、加える調味料の量、調理道具、加熱のタイミングをすべて、細かく正解を探し、究極を探しつづける人もいる。

弾けることと、芸術的に演奏できるようになることとは、まったく違う感覚なのである。

そして、多くの人はこれができない。そしてそれは考え方、脳の思考パターンによるところがある。そして、そこには内省型のHSPか、外にエネルギーを求める非HSPかによる。

しかし、非HSPであっても、それを理解し、正しく指導してくれる人に囲まれれば、問題ないだけではなく、非HSPだからこその、人に伝える技術で、芸術をより広められる人物になるというのは、メリットとして残る。

HSPかそうで、そうでないかで、芸術が理解できるかできないかを私は書いたわけではなく、芸術を深く楽しむ時間をもてるかどうかが結局は鍵なのである。

弾けるようになっておしまいにしていた人は、そうではなく、もっとよい演奏をするにはどうしたらいいかを考える人間もいるんだな、ということを理解をし、芸術がわからないなら知っている人に聞く(という能力は非HSPの方が簡単にできるのだから)、そのように動けば、芸術は磨かれるといことである。

電子ピアノはピアノではない ピアノの音を再生する機械である

皆さん、こんにちは

最近、Yahoo!知恵袋でピアノカテゴリーの質問に、ピアノと共に歩む息子との歩みの中でピアノについて学んだ経験から回答を書くことが多いのですが、そのテーマの中でよくあるのが

子供に電子ピアノを買おうと思うのですが、どんなのがいいのですか?

というものだ

これは私も経験したことだから、つい力をいれて回答してしまうのであるが、

全部の電子ピアノはおすすめではないのである。

家のスペースの問題、騒音の問題、定期的な調律、ピアノという楽器は面倒なものである

であるが、電子ピアノは楽器ではない

自ら音を発しないのだから、スピーカーから音を再生する「マシン」なのである。

もちろん電子ピアノはピアノの音はする。だが、ピアノの音を再生しているにすぎない、それも常に1色の音でしかないのである。

人間でたとえるなら、ロボットと人間くらいの違いがある。あらかじめプログラムされた動きをする人型ロボット。AIを積んで無限の可能性を秘めたロボットなら、まだ、ましかもしれない。けれど、ワンパターンのロボットならすぐに飽きてしまうだろう。それが今の電子ピアノだ。

無限にピアノの音をサンプリングをして、AIを積んで、ピアノ音をシミュレートすれば、電子ピアノももしかしたら、生ピアノのような表現力を持つことも可能かもしれないが、今現在はそのような方向の製品が存在しない。

どんなに、アップライトピアノの構造をとったとしても弦が鳴らない時点で、ピアノではなくなってしまっている。アップライトっぽいタッチの電子ピアノでも、アナログならではの変化を学ぶことができないのが、現状だ。

子供にピアノを習わせるなら、絶対に電子ピアノはNGだ。

うちの子は練習しないから、いいの。とか、お稽古だから。というのであれば、電子ピアノでもいいかもしれない。でも、それなら、いっそのこと、ピアノを習うこともないだろう

電子ピアノを買っていいのは、子供の頃に生ピアノを使い、きちんとしたタッチがわかっている大人だけだど、私は考えている。

電子ピアノと名前をつけたことがそもそも間違いだろう。ピアノキーボードと名称を変更したほうがいいだろう。あくまでもキーボードなのだから。

 

ピアノが上手いだけでピアニストになれるのか

先日、題名のない音楽会に出演していたピアニスト「ラン・ラン」氏について、以前どこかで演奏を聞いていたことがあったかもしれませんが、とんでもない人物であることがわかりました。。

もちろん、ご存知の方にとっては当たり前なのだと思いますが、私は知らなかったので、すみません。。反省します。

何が凄いかと言うとですね。

なんと!メタリカと共演してるんです

メタリカって言ったらですよ、クラシックとは真逆であり、決して上品ではなく、大変下品な私のような不良が好む、ヘビーメタル界の重鎮中の重鎮ですよ。

題名のない音楽中に、ラン・ラン氏が語っていた言葉「ピアノは何のためにやっているんだ」とアメリカに留学した時の先生に聞かれた時「コンクールで1位をとるためだ」と答えたそうですが、先生は「音楽は楽しむためにあるのでは?」とその時から、ラン•ラン氏は

「ピアノは楽しく演奏していいんだ」

と人生を変えるきっかけになったと語っておりました。その出会いがなければ、クラシックのピアニストが、メタリカと共演するなんてありえないですね。

ピアノの先生の中には、クラシック以外の音楽を認めない人もいるとは思いますが、まったく真逆の精神で演奏を楽しむのが、本来だと私も思います。

クラシックはあくまでも音楽のジャンルでしかないわけですから。

さて、このラン・ラン氏について、他の動画を見ていて気づいて聞かことがありますが、何と言っても有り余る、個性というか、自由さを持っていきがします。

レッスンビデオなどを見ているとわかると思いますが。

どうでしょう。Tシャツでラフな先生。どれだけ自由なんでしょうか(笑

クラシックとは、こうでなければいけないと固執すればするほどに、変化のないつまらない音楽になってしまっているのではないかと、私は思っています。

私も息子のレッスンを共に過ごすことで、ピアノとはどのように弾くものかを正しく理解してきたこともあり、ようやく、同じ曲を、何にものピアニストで聴き比べ、演奏の違いをわかることもできるようになり、クラシックの音楽の深みを味わえるようになってきた気もしますが、ラン・ラン氏のような自由なスタイルからなら、特に楽器に精通しなくても、わかりやすく楽しめる気がするのです。

エネルギッシュで無駄がなく、的確に、ユーモアを交えながらピアノを教える。演奏する。

ここまでくると、ピアノが弾けるのは当たり前で、それ以上のものを感じます。

日本に同じようなピアニストがいるかと問われれば、とても誰も真似できない気がします。

テレビに出演の多い、トークの得意な演奏家は、あえて名前を挙げませんが、多数いるとは思いますがどれも、演奏の方は、最高ではない気がします。

今回、ラン・ラン氏がスーパースターであることを初めて知った私でしたか、しばらくは注目のピアニストとして目が離せない感じです。

ピアノ上達のための心構え

みなさん、本日も当ブログにお越しいただきまことにありがとうございます。毎日更新していないので、やる気ないだろうと思われているかもしれませんが、少しづつですが、更新をしております。

徐々にですがアクセス数が伸びていることで、モチベーションが維持できるというのはあるので、更新がなくともアクセスいただけると幸いです(都合いいなぁ・・・

さて、本日は今まであえて書かなかった、「ピアノ上達の心構え」を書いておきたいと思います。

なぜ、今かって?

それは、うちの息子が、私の思いを汲み取って上達するかもわからなかったし、上には上が常にいますから、中途半端な個人の意見など、書いたら、ほらね。どうせ、聞いてくれないし、批判されしょうでしょ。だから、言いたくても、書かない、いや、書けなかったんですね。

とまぁ、音楽は私も好きですから、多くの方々が上達してもらいたいという気持ちがあります。いい演奏が聴けることは、とてもうれしいですから、そういうこともあって、今日はいくつか書いてみようと思います。

1、音楽が好きじゃなかったら、ピアノが好きじゃないなら辞めなさい

この言葉、多分、響くんじゃないでしょうか。3歳とか、とても若い頃からピアノをさせられます。最初から、なんでこんなことやらなきゃいけないのというお子さんもいれば、壁にぶつかって嫌になる、自分の上達が遅くて嫌になる、他にやりたいことが見つかって嫌になる。そんなことは、普通にあるわけです。そんなときに、親がもっとがんばれといってやらせる人、永くやってきたんだから、こんなところで辞めさせない、いろいろあるとは思います。

でも、私は、そういったなら、いっそ辞めてよいといいます。好きでないものを無理にやらせたところで、心が乗りません。心無き音楽、技術だけの音楽、一見きれいかもしれませんが、いずれその化けの皮はバレます。好きでないなら、辞めさせてください。辞めてください。

本当に好きだったことを思い出したら、続けてください。そうでなかったら辞めてよかったのです。他に心が乗るものがあるということは、それをやるために生まれてきたとなります。心の乗らないことを無理にやっても、本人の人生が無駄になるだけでなく、本人に関係した、親も、ピアノの先生も、皆ネガティブな感情が伝播します。心を、気持ちを優先させてください。

2、好きな曲を選ぶ、好きな曲を演奏する為の練習しかさせない

次の教えについても、とても大事で、当たり前のことです。好きな曲を演奏しましょう。そして、その曲を弾く為に必要な技術を体得する為の練習をしましょう。

昔の先生は、いいました。技術が身につけば、どんな曲でも弾けるようになると。そして、好きでもないチェルニーの練習曲をやらせて、指だけを動くようにします。

でも、これってまったくもって意味が無い。何が一番いみがないかというと、技術だけで、心が入らない練習をすることになるからです。ピアノの音色は結局、心のエネルギーに依存しているんです。指だけ動かす練習をしたら、心無い音色を作る練習をしているようなものです。意味ありますか?

つまらない音楽を作る原点は、絶対にこれだと私は思います。

しかし、弾きたい曲、好きな曲を練習していて、いまいち指が動かない、どうにかしなくちゃってときに、チェルニーやハノンをやる。そして、その効果に気づく。その時から、チェルニーやハノンの練習に意味がでます。もちろん、心ある練習になっていくからです。

今日は、この辺にしましょうか。

この2つの内容はとても大事です。好きじゃないことをやったところで、好きじゃないことをどうやってやったことにさせるか、心無い演奏をするための練習をすることにしかならないのです。気が乗らない時は、最低の30分の指練習で十分です。私は、そう思ったし、そのように息子に指導してきました。そして、音楽が嫌いなら辞めていいと何度も言ってきました。それでも、好きだという息子。なら続けていいと私も言う。

好きだからやる。気持ちがあるからやる。まずは、これが基本の心構えだとわたしは考えます。

音大の被害者たちの悲鳴

(今回の内容は、個人的な意見ですので、読み物でしかなく、変な小説だと思って、読んでいただければと思います)

ネット情報をめぐっていると必ずでてくるのが、「ピアノではご飯は食えない」。決まり文句のの「音大出ても就職先はない」です。

これについては、なぜかと言えば、自分勝手な被害者が多数いるからだと思っています。
音大に投資したのに、リターンがないじゃないか!という投資の詐欺に似たような構図が伺えます。

おそらく多くの親御さんは、音大に行きさえすれば学校なのだから、将来ピアニストとは言わずともピアノの先生くらいにはなって、投資した額が少なからず戻ってくると思って投資をしたのでしょう。

しかし、現実はそんなことはなく、音大を出たのに就職もできず、何の役にも立たなかった、我々は被害者だから、時間と損した金返せということなのでしょうね。(勉強嫌いだったんでしょうが。。。)

そのような方は、医学部に行けば、誰もが医師免許を得て医者になれるとでも思っているのでしょう。

芸術も同じです。美大についても同様の問題はつきまといます。文学部も同じような気もします。

でも、その前に気づかなければいけないことがあるんだと思います。現実を見なければいけません。

はっきり言って、現実把握能力が足りなすぎます

医者だって大学に受かるまでに、何浪もする人がいます。家系が医者のために、10年かけてようやく医学部に受かり、医者になるひともいるくらいです。2年、3年と医学部を挑み、途中で諦める人も多数います。

弁護士免許を取るために大学を卒業してから何年も就職せずに勉強している弁護士の卵も多数います。

どの道もみんな簡単じゃない現実があります。

だから人生なんですけどね(この先は長くなるので書くのは止めておきましょう)
さて音楽に戻りましょう。

最近活躍しているクラシックの音楽家は、そもそも大学に入学する前にデビューをしていたりするものです。大学に行くまでに、どこかで優勝などの芽がでなかったのだとしたら、音大には絶対行くべきではないということでしょう。

なので、今は音大に行く前に、判断をすべきなんだと思います。

最近、ピアノやバイオリンは3歳から始めるような特殊な習い事になっているので、13歳~15歳で、すでにかなりの時間を練習していることになります。ライバルはそれが当たり前なのです。

大学のたった4年間で習得することよりも多くの時間を、その期間で確保し、練習してきたのですから、追いつかないほうがいたって普通です。

ですから、プロになるなら事実上「音大」は不要になっているんだと思います。

音大進学については、楽器を始めたのが遅いことを考慮しても、遅くとも17歳までに芽が出ていた子だけが、家庭の経済事情や自身の覚悟をもって慎重に検討するようなものなんだということです。

音大に入る試験なんて、あってないような子供達じゃなきゃ、演奏家にはなれないということでもあるでしょう。(つまり、結局プロになるのに、音大は必要ないとこまで先行教育で来ちゃってるということなんでしょう)

今の時代、小学生の途中から楽器を始めても、ピアノやバイオリンのクラシックの演奏家の道は閉ざされていると言える気がします。

それ以外の楽器であれば、可能性もあるかもしれませんが、それでも、真剣な覚悟が必要です。基本は、それでも音大には行くべきではないでしょう。

落語やその他芸能、何にしても、簡単に「道」は究められるものではないということです。

どんなことでもそうですが、遊んでたら、何にもならないということです。

とまぁ、厳しい現実を書くのはここまでです。

ダメだったら諦めればいいんです、諦めれば、自然と道は開けてきたりもするものです。

どんな人にも、それぞれの個性と「とりえ」があるのものですから、ピアノや音楽がダメでも、その時できる、他のことを真剣に探して、やればいいのです。

仕事は、どんな仕事も、心さえしっかり持てば、楽しむことができるものです。

生きている限り、みんなが努力しているのですから、努力をしなければ、前に進まなければいけないのです。でも、前に進めば、つらくとも見えてくるものは、必ずあるはずなのです。

一見幸せそうな人も、みな苦労をして、毎日を進んでいるのが現実だということが、わかる時がくるでしょう。難しいことをやる必要はなく、やれることを怠ることなく、しっかりやればいいのです。

2017 カワイ音楽コンクールCコースの予選の結果

小学校3年生のときは、入選

小学校4年生のときは、審査員特別賞

そして、今年1年は、リズムもタッチも一からやり直すつもりで、1年頑張ってきました。

小学校5年生の今年は、

なんと

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入賞

それだけではなく、予選一位通過だったと思います。

それくらい、頑張ったし、タッチがまったく別物になってくれたのです。

正直、親の私は、腹痛でつらくなるくらい、緊張していました。自分が受けているわけではないのですが。。。

ただ、これは通過点なのです

まったく、安心していない自分がいます

私が、親ばかなのでしょうけれど、、、そのくらいの覚悟で、一緒にコンクールを歩んでいるんですよね

同じように歩んだ数々の家庭が、たくさんのアスリート、音楽家、一流といわれる人の裏にあったことが、実感としてわかってきました。

今日は、ここまでです、まだ、おなかが痛いです。。。

続き・・・2018/2/12

この日のことをもう少しまともに書いてみようかと思い加筆いたします。

この日は、親である私は、もともと体調不良の中でコンクールに参加していましたのでお腹が痛かったというのもありましたので、緊張だけで体調が悪かったわけではありません。

今振り返ると小学校5年生のこのときの演奏は、あくまでもCコースだからこその予選トップ通過であり、1年後、今のBコースでの予選通過を経てみると、やはり通過点でしかありませんでした。この時の録音は自宅にありますが、今聴くと、演奏もよくありません。

この時は、まだ、ピアノは普通の趣味の延長だったので、ピアノの練習のしかたもあまり効率が良くありませんでしたし、そして圧倒的に不足している視点がありました。

それは芸術性です。

可能な限り自分の世界感でよい演奏をする。表現する。間違えないように弾く。そういった視点で練習してきており、楽曲の開始と終わりを意識した演奏をしていなかったし、調性を意識した演奏もまったくしていませんでした。

逆に言うと、それでも予選は通過できてしまっていたんです。まったく芸術性がなかったとは言いませんが、芸術性の意識が足りませんでした。それとなく弾いていたという感じです。

今振り返れば、そういう芸術性を教えてくれる先生に早くから教わっておけば、小学生のうちから、全国を狙うようなこともできたなぁと思うところもありますが、それは後の祭りです。

この時のカワイのコンクールは、ピティナよりも予選のレベルが低いところがあり、うちの子供も予選を突破できるような状況でしたが、その年のピティナでは予選落ちをしたので、先にすすむと、やはり芸術性がないと、勝てない世界があることは、ピアノを習っており、コンクールを勝ちたい親御さんには知っておいてほしいと思います。

閲覧いただきありがとうございました。

ピアノソナタ K.545 モーツァルト

夏のピアノ発表会が終わり、次なる課題曲を息子は受け取って練習に励んでいる。

その曲は、モーツァルトのピアノソナタ K.545 である

Wikipediaに「初心者のための小さなソナタ」と記載されているように、息子にとっては、ソナチネアルバムをある程度さらった後にやることになった2つ目のソナタである。

とはいえ、ソナタなので、初心者=バイエルとかそのような類の簡単な曲ではない。

YouTubeでは、早くは6歳程の子供の演奏を聴くことが可能であるが、同時に著名なプロのピアニストの演奏もYouTubeで投稿されていることから、初心者のためと枕詞がタグ付けされているが、そこはかとなく奥深い曲であると、私も感じている。

そもそもソナチネであっても、子供が弾いたものとプロが弾いたものでは、全然曲のイメージが違ってくる。

ピアノという楽器は、音の強さ・弱さ、音の長さ・短さ、音のバランス、トリルの中の指の強弱、リズム、言い出したらきりがないほどに、様々な音楽を奏でることが可能であり、譜面どおりに弾いたとしても、ピアニストによって印象が違ってくるものである。

今回、私はこのK.545を聞くにあたり、その演奏能力による違いを体感でき、ピアノの理解がより深まった。(とはいえ、私が弾いているわけではないのですが)

YouTubeにアップされているK.545を一通り聞いてみましたが、録音状態といった点もありますが、結局、一番になったのは、誰もが知るピアニストの演奏でした。

[embedyt] http://www.youtube.com/watch?v=pD59nWEi4GI[/embedyt]

スタジオジブリ 風の谷のナウシカ


これ、いいですね!

久石譲が音楽を手がけた「風の谷のナウシカ」の楽曲は、今聴いても全然色あせておらず魅力があります。

私のクラシックとのはじめの接点は「アニメ」と「ゲーム」からでした。つまりは、世代なのかもしれませんね。

地方の田舎公務員の長男として生まれ、あまり上級生との接点との無かった私が、ジブリ作品に触れたのは、実は小学校ででした。

アニメーションももちろんですが、その音楽の深さに驚いたというか、まさに衝撃を受けていたわけですね。

戦隊モノの主題歌を卒業していた頃の私は、アイドルやロック音楽を聴くよりも先に、ジブリのCDをレンタルしたり、買ったりしていました。

そういえば、私が始めて買ったCDは、「魔女の宅急便」だった記憶がよみがえってきました。そして、最初に買ったテープ音楽は「ドラゴンクエスト」だったのでした。

レコードの次は、テープという媒体でも音楽を売っていたという話ですね。

私がクラシックを取り入れていた「X」の音楽に魅了されロックに目覚めることになるわけですが、もしかしたら、クラシックの接点があったからかもしれないわけですね。

さて、ピアノが弾ける息子がいることによって、今一度クラシックとの接点が戻ってきたわけですが、最近は息子が、好きなアニメの曲をアレンジして弾いているとかが、あるわけで、そこに感動してる私がいます。

なんで、できるんだか。。愛ですかね。

アニメ音楽の世界への広がりを見ていると、やはり、音楽というのは、「劇」の曲として書かれることで、洗練されるのではないかと思わせるてくれます。

いいですね、ジブリ。ほんと、久石先生、いいですね。