小林愛実さんのショパン国際音楽コンクールでの演奏を見ていて気になった、八分音符のネックレス。
私以外にも、気になた方はいるようで、ブログで探すも、どこのものかわかりませんでした。
楽天で、似たようなものを探してみましたが、下のデザインが近いですが、これ以上に似ているものは見出せないですね。
さりげなくゴールド。
たぶん普通のネックレスをしていたら、あまり気にならないのですが、「音符」をモチーフにしている時点で、伝わってきますね!
うちの息子の演奏を聴いたあとの先生は、
「こんなんじゃダメだね、今回はレベルが高すぎたー、もう一度基礎からやり直そぅ!」
という、ややお怒りモードだったのです、、それも、私の母、嫁の母、妻、そして本人の前で・・・
どうにか、審査員特別賞をもらえたこともあり、まぁ、私はそこまで悪くはなかったと思うのですが、かなり気合が入っています。素人だけど私の母は一番だったと言ってたし・・・
出された宿題は3曲でした。
しかしメールの〆には、「年末年始はゆっくりお過ごしください」ってば、ゆっくりは、練習以外の話ということなんでしょうね・・練習は別。
ピアノの練習は毎日前提なんでしょうね。
コンクールのすぐ後に、次の宿題を出してくれる先生というのは、すごくありがたいと思います。
きっと有名で忙しい先生なら、全国大会に行かない子供なんて、相手にしなさそうですものね・・・
さて、出された宿題は、
の3つです。
正直弾くというだけでは、どれもすぐに弾けるようなものですが、ピアノを上手に響かせ、すばらしい演奏で弾くという点では、まだまだな息子ですから、意味を理解して練習してもらいたいものですね。
明日は待ちに待った?というより、やはりやや緊張感を感じるコンクールの本番である。
息子が出場するのはCコースなので、小学校6年生まで出場できるし、そもそも上手な子は小学生でもBコース(中学2年まで)に出場するので、それほど緊張していない。
そんなこんなで、気持ちを変えてみようかと、今日はアップライトの中身をむき出しにして練習させてみた。
そうすると!
「なーんか、いつもと違う!!」と息子は興奮し始めて、やっていた宿題をそっちのけで、ピアノを弾きたくなってしまって、弾きたい、弾きたいとなってしまった。
しかたがないので宿題は夜に延期で、ピアノを弾かせました。
ところが、楽しすぎて気持ちが高ぶってしまった為か、もう演奏が飛び跳ねちゃって、練習になりませんでした。(逆効果でした)
アップライトピアノ中をむき出しにすると、目の前でハンマーが動くので、見ているだけでも楽しい。子供ならなおさらなんでしょう。
始めてのことだったので、より刺激が強かったようである。
ピアノは習っていない、弟クンまで興奮して、ハンマーが動くのを「すごい」「すごい」と眺めていました。
奥さんもさすがに、弾んでしまっているピアノの演奏に堪忍袋の緒が切れて、しかってしまった。
子供は「だったら見本見せてよ!」といって、ちょっときれ気味でしたが。10分後には仲直り。親子ってやつはこれだから、難しいですな。
私が出場するわけではないですが、子供がピアノのコンクールに出場するとなると、いろんなところで、ハラハラする毎日となるので、楽しいですな。
ピアノは中途半端にやっても何にもならない。音大を卒業しても先生くらいしか道はないし、先生になったところで給料も少ない。
ずっとそういう話を聴いていながら、私は息子にはピアノを習わせている。
本人が望んだからであり、今も続けたいと言うからだ。
けれど、一日1時間を越えて練習するのは無理のようだ。
小学生高学年となれば、ピアノはやめて塾に通った方が成績をあげるなら効率が良い。
ただ、私は勉強はやりたくないなら、やらなくていいと思っている。
嫌いなこと、嫌なこと、お金を稼ぐためのこと、そんな作業のために生きる人生に、やはり意味があるとは思わない。
どんな人生だろうが苦労がない人生なんてのはないし、どんなことをやってもいいのが人生なのだ。
ならやりたいことをやるべきなのである。
心のままに、目の前のことに没頭して、毎日を生きることが、人生のすべてだと私は今考えている。
他人は他人の人生を送るものであり、他人の人生をうらやんだり、生まれや給料がどうとかの比較の話も根本的にはどうでもいいことなのである。
他人との比較を始めた瞬間から、心の牢獄が生まれてしまうのである。
自分が心底やりたいことをやっている時、人は輝く。
これは紛れもない事実だと思う。
他人と比べたり、他人をコントロールしようとしたり、怒りや恐れ、様々な感情をむき出しにして、心を乱すから、自分の奥底にある心の声を聴くこともできないし、心のままに生きることもできない。
無理に働くと、体が疲れだけではなく、心が疲れるのである。酒や一時の快楽で、それを誤魔化そうとしたところで、結局心が満たされることはなく、疲れたまま生きることになる。
だから、偉くなろう、社長になろう、金持ちに成りたいと強く願っている人を見ると、少し気味が悪く感じる。
まったく美しくない。
最近は稼いだお金を使って、何をしているのかを見るだけで、その人のすべてが見える気もする。いくらお金を稼ぐかよりも、そのお金を何に使うのかで、その人の生き方が見えてくるのだと思う。
ピアノという芸術に触れているとき、音色の美しさと人間の欲望の醜さとを対比させて聴いている自分がいる。
ピアノの音色には、そう私を夢想させる何かがある。
私はピアノをほとんど弾けないが、ピアノに今心底はまっているようだ。
ピアノを習っているとこんな話が出ます。実際に大手のピアノ教室に勤めていたとしても、自分の生徒がいなければ給与が少ないのが実体です。
つまりは、自分の生徒は自分で集めろ=個人教室との差別化はない=大手に所属するのは一般人向けの拍
息子の場合も、習い始めた1年目の先生はすぐに自分の教室を始めてやめていきました。個人教室をやっていてたまに連絡をとっているようです。
日本の経済のバブル期に、ピアノのバブル期もありました。
その時代は、チェルニー、チェルニー、チェルニーと誰もが指練習を当たり前のようにやらされたそうです。
今はその反動で音楽的に意味がないから、やるのは必須ではないという論を持っている先生もいますが、結局のところ向かっているのは、生徒が減らないように努力をしている先生たちの姿です。
たくさんの生徒がいれば、収入を気にせず強気の厳しい指導ができますが、厳しい指導は脱落者が多数でるので、そんなやりかたはピアノ不況の現在は通用しないということらしいです。
そして、生徒のレベルも下がっていきます。理想とはかけ離れた「ゆとり教育」ですね。通常の勉学と同じです。
ピアノをやる子供が減り、すっかりピアノバブルの跡もなくなり、日本も没落しているのは皆さんご存知の通りです。
その一方で、正常な状態での新陳代謝は続いているので、バブルの反動の淘汰の結果、まともな状態が来るのは、ピアノも同じだと思います。
つまり、過大な広告や流行によるピアノブームが終わったあとの、ピアノの正常な、生徒の集まり、先生の需要がくる。
そして、本来のあるべき芸術のあり方に戻るのだと思います。
ピアノを金儲けの道具にしたからこそ、2000万円を超えるようなピアノがあること、そのこと自体が過去の過熱を物語っていると私は感じます。
これが良いことか、悪いことかは、受け止める側の考え方に依存しますが
息子は今日今年最後のピアノのレッスン日でした。
あとは、コンクールを残すのみ。
小学校4年生で、学校行事に習い事といろいろやらされている感もあり、少しかわいそうでは?と自分の両親にも言われるのだけれど、本人がやる気なのだから、いいんじゃないかと思っている。
それと、耐えれる範囲でプレッシャーをかけるのもよい機会かなぁと思っている。もともと、平気な感じなので今回もプレッシャーなんかはねのけてやってくれると思っている。
息子も
「昨年までは、ただなんとくやっていた感じだったけど、今年はコンクールのために練習した感じがする。」
と何か、自信があるようだ。まぁ、もっと練習している子、上級生との戦いなのだから、そんなに簡単なものではない。
昨年、息子があまりにも本番の演奏が一番よいので、普段は手を抜いている?と聞くと
私に怒られた後か、本番しか本気になれない
とか言うので、今年は、プレッシャーをかけてやった。学校のピアノ伴奏の練習、劇の練習いろいろあったようで、ストレスもたまることもあったようで、機嫌が悪い状態で自宅に帰ってくることもあったようだ。
すでに息子は寝ているので、ここでお疲れ様と書いて、本日の記録とします。