なんのために生きるのか?
これまでの過去の人生において、私が生きる意味として認識していたものを掲載してみると次のようなものがありました。
- 生きてるから生きる
- 欲しいものを手に入れたいから生きる
- 支払いがあるから生きる
- 子供を育てなければいけないから生きる
- みんなが普通にいきてるから生きる
生きる意味を考えることは意味がないとブッダは言っていた、という話を読んだことがありますが、その意味がようやく私でも、わかるようになってきました。
既に肉親の死を知っている人にとっては、当たり前のことかと感じますが、未熟な私も、母の死を知ることで、この世で価値あるものとは何かが、改めて理解できるようになりました。
テレビやネットなどの数々の広告・コマーシャルは、私達を欲望の誘惑に誘っていますが、それすらも、どうやら今の私には、響かなくなってきました。
そんな価値のないものをよくぞ広告できるなと、感じるくらいです。
そんな中で、どうして私は生きるのか、さらにそれを理解できるようになりましたので、そのことを記録として残したいと思います。
まず、なんでこのような心境になったかを書いてみましょう。
なんでこのような心境になったのか?
これまで当たり前にあると思ったものが、当たり前でないことに気づいた
最初から答えを書いてしまいますが、「いつまでも、あると思うな、親と金」という言葉を私は聞いて育ちましたが、お金よりも先に、昨年母が亡くなりました。
今の時代医療が進み、80代くらいまで生きるのが普通の時代と感じていたので、私の母もまだまだ生きるのではないかと思っていました。ところが、60代半ばで私の母はこの世を去りました。
まだ、受け入れられてないのか、昨日も夢で見てしまいました。しかし、現実には、私の前で当たり前のものが亡くなるということが起きてしまいました。
世界には、戦争が今もあるような国があり、そこでは家族、親戚といった肉親が負傷したり、死んだりする姿があるのでしょう。
空爆という正義の言葉で、殺しを行っている中で、それは起きているのです。
経済という麻薬が人々からその現実を見えなくしていますが、事実存在しているのです。
当たり前と思ったことが、なくなったとき、無常の意味が際立ちます。
生きることの意味
それは次のようなものだと、今の私は感じております。
- 今日できること、今日感じたこと、今日生まれたものを大事にする
- 昨日から考えが変わって当然と認め、その考えに従う
- それらを大事にする
- できないことをみせつけられたって気にしない
- できると思ったことが、できなかったとしても気にしない
- 自分の心と精神を保つこと、タイミングがると知ること
- 自分の心の奥底にある本当に心に従い、ほんのちょっとの勇気で、自分の現実を変えていくこと
これだけです。それでは、次回、これらのことをもう少し丁寧に書いてみたいと思います。