「パパの話」カテゴリーアーカイブ

人は「波」を受けて生きている!?

人も地球も太陽からの熱をもらって生きている、当たり前だけど、だーれもそんなことを考えずに生きている。

明日は晴れ

「やったー!」

明日は雨

「ぬれるー!」

そんな天気の話題でしか、ふだんは太陽について考えたりしない。でも、太陽が無くなったら、あっという間に我々人類は零度以下の極寒の世界に閉じこまれ死滅する。

太陽がなくなれば、ロシアのサハ共和国のマイナス70度以下の世界が襲うのだから、どんなところにいたって生きていられないだろう。

さて、その太陽の熱はなぜ地球に届くかといえば、波。太陽光線という光の波が届くからだ。

すべては、太陽のエネルギーという波を受けているから、成り立っているのがこの世界なのである。古代人は自然の少し変化が、より深刻な影響を与えたからこそ、太陽を神様として祭ったのだろう。

ピアノの音が耳に届くのも、ピアノの弦から発せられた波が空気を振動して届くからである。そう考えると、ピアノ弦の振動もエネルギーを持っているということになる。

最新のスマートフォンの充電は、USBケーブルだけではなく、電波を使って充電が可能になっている。このことも、波がエネルギーを持っていることの証明だ。太陽光発電だって同じだ。

そして波にはWifiのように多くの情報をのせることができる。

そうやって波について突き詰めていくと、人間というのは、波動というエネルギーで生きているのではないか?ということろにいきつく。

そういうことを考えると、仏教の「色即是空」にも、理解が深まる

色即是空(しきそくぜくう)とは、『般若心経』にある言葉で、仏教の根本教理といわれる。「色」は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、「空」は、固定した実体がなく空虚であるという意味。空即是色と対をなす。「色即是空」の区切りは「色、即是、空」とされる。

私達の実体はモノではなく、やはりエネルギーの塊=魂ということなんだと思えてくる。そう考えると、ピアノから発せられる音に人間が影響を受けることも、どことなく現実味を帯びてくる。

ピアニストが違うだけで、音が違う。これは実際に感じられる。

ピアノから届いているのは、演奏者の音だけじゃないのかもしれない。演奏者の魂から放たれた波動が同時に音にのって伝播している気がする。

だから、「ピアノは(音楽は)、心で感じるものだ」という言葉が、すでに存在しているのであろう。ピアノを通じて、演奏者の「心」を洗練させることが、もしかしたらピアノの練習なのかもしれない。

未熟な科学では、測ることができない何かがあるのは、事実な気がする。私は理系で電気を学びましたが、最近はそう考えるようになってきた。

私は10代・20代の頃、「この世は死んだら終わり」っていうことを信じていましたが、今はそう思うはなくなってきています。特に何かしらの宗教に入っているわけではないのですが、そう感じるようになっています。

感動した時に、感動しているのは、体のどこなのでしょうか?脳なのでしょうか?

心ですよね、でも心はどこにあるのかわからない。

実体のないエネルギー=魂が私達の実体、だからこそ、波の影響を受ける、そう最近は感じます。いいピアノ演奏は、音がよいと同時に、よい波を出しているのかもしれない。

私自身について

ピアノのブログを書いている私については、あまり詳細に書いてこなかったけれども、たまには書いてみようかと思ってこれを書いている。

私は、学生時代バンド活動をしていた、ギターをやっていた、上手くはないけど、ボーカルもやっていた。そして、作曲もやった。

そんな音楽生活は、順風満帆なことはなく、週末は「バイトバイトバイト」、平日は学校が終ればバイトか練習で、たまにある休みはライブで、恋愛なんてそっちのけで、ミュージシャンになるんだという、勘違い野郎の生活をしていた。

音楽の専門学校の学費を自分で払うために、元旦からバイクでピザを配っていた時のことを、今でも思い出す。

もちろん、それでも結果的にミュージシャンになどなれず、普通の就職をして現在に至る。

大学時代は、電気を学んでいたので、行こうと思えば、電子楽器の開発の道もあったのだけれども、音楽への未練が復活するのをおそれ、きっぱり諦め、関係のないITを今もやっている。

しかしだ、音楽の呪縛からは逃れられないのか、結婚して子供ができると奥さんがなぜかリトミックを始めた。

気づくと子供がピアノをやっていた。

そして、私がほしいと願っていた絶対音感を持つ子供がそばにいた。

コンクールに最年少初出場で、賞にひっかかるような息子があらわれた。

私は仕事中心で子育てはあまり手伝ってこなかったのだが、音楽の呪縛なのだろうか、私が望んでいた才能、絶対音感を持ってピアノを弾く子が、気づけばすぐそばにいたのである。

今でも思い出すのは、19歳か20歳の頃に、両親に何が欲しいのか尋ねられたときに、才能が欲しいといったのを覚えている。

その才能というのは、まさにピアノの才能だった。

神様というのは、このような形で望みを叶えるのか、と最近は考える。

私が願ったものを10年以上も経ってから、諦めて忘れていたところに、息子という形で与えるのであるから。

はっきりいって、音楽の道の険しさはよくわかっている。特に商業音楽は、一時売れたとしても永遠には続かない。自分が最高だと思っても、聴いてくれる人がそう思ってはくれるものでもない。

けれど、今は息子にやれるだけ、がんばってもらいたいという気持ちでいる。

今やれることを精一杯やればいい。

これまで、私は子供のピアノに真剣に関与してこなかったけど、この半年ほどで、いろいろと言う親になってしまった。クラシックと、軽音楽はまったく違う部分もあるのだけれども、譜面は同じだ。

わかるところはわかるのであるから、つい口を出したくなるのである。

これが今現在の私である。

そして、今後どうなりたいのかということに関しておぼろげながら夢として現れているのは、ITと音楽を結びつけた、何かをやりたいということだ。

このブログもその一環ではある。

与えられたこと、目の前のことを、精一杯。だからこそ、今日は書ける自分のことを書いてみた。

いろんなことを諦めていた私自身の道も、新しく動き始めた気がする。

このブログは方向性も決まらず、進んでおりますが、読んで、何かしら感じてもらえたら、幸いです。