先日、某音楽コンクールにおいて、息子は予選をトップ通過したことはお伝えしたが、そのことを、今度入学予定のとある音大付属の中学校でお世話になる予定の先生にお伝えした。
先生は、藝大出身で、ピアノ科の首席卒業の方であり、子供の頃から、コンクールで全国入賞歴のある方である。今年はこの先生に、夏季講習、冬期講習で計5回ほど、レッスンで指導を受けた。
さて、その予選通過報告により帰ってきたメールの内容を確認すると、私が以前から思っていた、やはりの文章が書かれていた。
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私は以前から考えていたのであるが、ピアノコンクールは最上級クラス、特に大学生レベルのクラス以外においては、あまり価値がないのではないか?
単なる、コンクールビジネスなのではないか?
おそらく、勉学における、模試ビジネスに近いものではないか?
と感じていた。そのことについて、あらためて、先生の帰ってきた文章を読む限り、やはりなという印象であった。
先生から帰ってきた文章に書かれていたことを要約して私なりの言葉に改めて記載させていただくと
コンクールの予選通過おめでとうございます、に始まっていたが、コンクールはそれ自体に価値があるものではなく、あくまでもその瞬間のスナップショット。
それで、一喜一憂するものではない。私が担当することになった後のコンクール参加については、レッスンスケジュールに合わせ調整の上、一緒に検討してから参加の判断をしていきたいという内容であった。
あー、やはりわかっているなという感じである。
実力が伴っていないのに、レッスンの予定を狂わし、コンクールを優先するのは、芸術に対する冒とくだと。そんなことを直接書かれているわけではないが、私にはそのように受け止められた。
コンクールで入賞したところで、あくまでもその瞬間、限られた参加者で、たまたま調子が良かったから、悪かったからで結果がでるだけのことで、本質的なピアノ演奏能力の優劣が決まるものでしかない。特に、学習が不足している頃は。
また、コンクールで扱った課題曲もあらかじめ発表されているものである。練習する時間はかなりあるし、人によっては前年から準備することだって可能だ。
このことから、コンクールとは、結果、制限された楽曲の出来栄えに関する評価につながっているだけのことになってしまうと私は捉えている。
新しく与えられた楽曲を自分なりに解釈し、先生のサポートなしで表現するだけの実力があるかを問われているわけではないのである。
そんなコンクールに価値があるのか?あるのであれば、今いる自分のポジションを確かめる程度でしかないのではないか。
それは、模試に近いものではないか。
私はそう考えている。もちろん、小学生の頃からコンクールでトップをとるとなれば、それははすばらしいことである。そのこと自体は、すばらしいと思います。
けれど、だからといって、ピアニストとして活躍できるだけの学習をしたことにはならない。
以前であれば、コンクールで結果が出たことを喜んでいたのであるが、今回は、結果よりも、実際の演奏がどうだったか、次の課題曲をやるにあたっても、まだまだやるべきことがあるのに、どうなのかを考える状況になっている。
そして、新たな先生からは、基礎から磨きなおしを示唆する内容、アルペジオ・音階の練習からやりましょうねと、伝えられている。
これまでのような、楽譜の内容から指を動かし演奏する程度のものではなく、さらに、調性を理解して演奏に反映させること、楽曲の構成を考える姿勢を身に着けることからのやり直しということになるわけである。
つまりは、コンクールなんかで、無駄なことをやっている時間はないといわれているような感じなのであった。
今回は、ここまでとなります。読んでいただきありがとうございました。