今できる表現力の限界

うちの息子は今月末のカワイ音楽コンクールの予選に出場する。そのための課題曲は3~4ヶ月前には決まり、すでに暗譜は完了している。

楽譜を見なくても十分に弾けるのである。次の音符がわかるのである。というか体が勝手に動くのである。

ところが、そうなって始めてわかるのが、表現力つまりは技術の限界だ。

これまでは、暗譜できるようになって長くとも数週間で発表会やコンクールを迎えていた。そうなってくると自分の表現力の限界よりも、曲を覚えるという期間が長いので、やればできるようになるので、それほど苦痛なことではなかったはずである。

今は、そうではない。

技術、今はトリルだけれども、妥協をしたくない性格のせいで、音符が、拍が、決まらないトリルに、毎日いらいらしているようだ。

それだけではなく、今回は休符の間、フォルテ、メゾフォルテ等の違いをどうだしているのか、録画した音で確認をさせているので、何ができていて、何ができていないかを、以前よりもはっきりと認識させている。

その中で、練習をするのは、さぞやきついだろう。自分もギターをやっていたのでよくわかる。

技術を習うために少しづつ、新しい曲を練習しながら進むのは、違う曲に進むということで、進んでいる感がある。それで、やりがいがでてくる。

ところが、同じ曲を長く続けることは、そのスピードが止まっているかのように感じられ、苦痛となる。現実的には、新しい曲をどんだけやろうが、技術が伸びるスピードは変わらないはずで、体の成長と神経細胞の成長に伴って、ゆっくりなスピードでは伸びているはずだ。

だが、この止まっているけど見つけた課題を真摯に練習することが、次につながるのである。

つらいと思うけども、これを今後も続けることで技術、表現力というのは伸びていくのである。

残酷だが、ここから先は、そのような世界になるんだろう。

逆にいえば、息子はようやくそこにたどり着いたということでもある。

同じフレーズの弾き方のバリエーションを100種類増やすなら、少なくとも100回は弾くはずである。実際は1000回以上だろうけど。そして、そのとき、弾いているフレーズは同じだ。退屈かもしれないけれど、同じフレーズを変えるという練習をするとき、曲は同じということなのだ。

考えたら、嫌になるなら、考えることなく、無心でやればいい。私はそう感じているけど、なかなか伝わらないようだ。

気分転換は、違う曲。今は、「オルフェンズの涙」を耳コピで弾いているようだ。

がんばれ!(直接言うと、イライラするので、ここにとどめる)

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