ピアノで楽曲を弾くことと音楽を奏でるのとではまるっきり違う

私は学生時代にギターをやっていました。その頃は、早いフレーズを鮮やかに弾くことがすばらしいことだっていう思いがあって、イングヴェイ・マルムスティーンやインペリテリとか、ポールギルバートといった、早弾きの名手を憧れたものでした。わかる人にはわかるかな!?

YouTubeで見つけた下記の動画があります。

5歳で「子犬のワルツ」を弾いています。「5歳で」です。すごいことだと思います。でも、私にはピアノの曲を弾いているだけ、という印象になんですよ。評価側の数が多くついているんですが、私は、どうなんだろうなぁって、今は思ってしまいます。

私の息子も「子犬のワルツ」を、9歳でしたが練習していた時期があり、色々な方の子犬のワルツを聞きました。その中で、牛田くんの「子犬をワルツ」がやはりいいなぁと思ったものでした。

それでも、やはり、もうちょっとかも?と今は思ってしまうんですね。

私がピアノを弾けるわけではないので偉そうなことを書くのはちょっと無理があるのですが、たくさんのピアノ演奏を聴いている昨今、ほんの些細な音の強弱が気になるんです。些細な音が、印象を変えてくると思うんです。

クラシックのピアノ曲を演奏することは、巨匠の絵画を真似て描いているようなものであると思うんです。カラオケに近いといってもいいかもしれないと私は思うんです。JPOP的には、カバー曲ばっかりなわけです。

でも、そこに演奏者なりの解釈をすることで、巨匠ではなく、演奏者の楽曲になるからこそ、演奏に面白みが出てくるんだと思います。

この5歳の子供の「子犬のワルツ」の演奏はピアノが弾けているようで、指の分解がよろしくなく、音が実際みだれていると感じます。また、音楽的な余韻などは皆無です。5歳だからということを考慮すると、指を動かす基礎能力が長けていて、すごいとは思うのですが、そのすごいはスポーツ的なすごいなんですよ。

音楽的、芸術的にすばらしいという視点では、どうかなぁと私は思うんです。

5歳なんだからそんなのこれからでしょ!って、そういうのもわかるところはあるのですが、スポーツ的に難しい曲を弾くことがすばらいという「やり方」を続けてしまうと、音楽の本質とはやはりズレてしまうんじゃないかと思うんですね。

難しい曲が演奏できるから感動するのではなく、すばらしい演奏を聴くときに人は感動をするんじゃないかと思うんですね。

実際にギターの世界でも、技術がすごいからCDが売れることはないと思いました。技術的にすごいということでCDを買ってくれるのは一部の自分でもギターを弾く人。そんなものは一般人にはうけない。ところが、やはり楽曲的に面白かったり、何度も聞きたくなる歌詞、なぜか感動するもの、かっこいいものっていうのは、技術ではないんですね。

特に歌ものやロックなどは自分達で作曲したものを提供するので、技術ではないものの方に価値があると今は感じるですね。

行き着くところ、伝わってくる作曲者・演奏者の「心」というものなんでしょうかね。

長くなりましたが、今日こんなことを書いて、何が言いたいのかと言われれば、5歳だからこの子がすばらしいといって、5歳をすぎている他の子供達がピアノを習うのをためらうことはなく、音楽というのはいろんな演奏があっていいし、技術だけではないということを知ってもらいたいと思ったからです。

他の方と違う演奏をする人に、なんであそこの音を、強く(or弱く)弾いたの!?と質問したときに、ただ、なんとなくではなく、私は、「こう感じた・こう表現したかった」からっていう解がでてくると、そこで再度、感動するものです。

「心」が一番大事であり、それを育て、ピアノで表現する。そこなんじゃないかと、私は、感じます。

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