クラシック音楽がつまらない理由は、生きていないからだ

私はホテルで並ぶスープやステーキよりも、市場や海で採ったばかりの新鮮な魚介類を食べることが好きだ。

理由は簡単、その鮮度だ。

さっきまで生きていた生命をいただいているからこそ、生きのいい魚介類は美味しいのだ。(少し残酷であるが、ホテルだろうが、目の前だろうが、生き物を殺して、私たちは食らっているのだから、何も変わらないのだ。ホテルだから上品なんて、そもそも上品という言葉そのものに品性がない)

ピアノのレッスンで使われているクラシック音楽はたいていの場合、すでに亡くなった音楽家たちが作った音楽を、再現するように演奏をする。しかし、いいクラシック音楽というのは、再現するのではなく、現代の感性でリニューアルされたようなものなのではないかと、私は考えている。

事実、感動を覚える演奏家は、どこかで批判の対象となっていることが多い。

誰かの真似、先生と同じに弾ける、こういったものは、すでにある何かと同じだから、評価ができるにすぎないのだ。

本当にすばらしい新しいことは、常に評価ができない。というか、今まで聞いたことがないからこそ、奇異の対象に最初はなるのである。

そして、それが「個性」というものなんだと私は考える。

カラオケで本人とおなじように歌えたかどうかを採点する機械が流行っているが、本人・原曲と同じリズム、同じ音程、同じ声質で歌うなら、本人が歌えばいい。

そうではなく個人それぞれが、生まれながらもっている音楽をそのままシンプルに表現すれば、どの音楽もすばらしいものになるではないだろうかと、私は思うのだ。

技術やテクニックというのは、必要だから生まれたわけであり、その表現が必要なければ、どうでもいい無駄な高機能なのである。それは一度も使われない、スマホのアプリのように。

と考えると、難しい曲を弾くとか、先生に評価される曲とか、入賞できる曲とかという基準で何かをする時点で、すでに音楽が死んでしまっているんじゃないかと思う。

だからこそ

この曲を再現する!私らしく表現する!他人の意見は10%以下で参考にする程度、やりたいことをやるんだから!

というような音楽にこそ私たちは感動するんではないのだろうか!?

とあるYouTubeで有名なピアニストはクラシック音楽を見限ったけど、生き生きとしたピアノが今や認められているし、X JapanのリーダーYoshikiも天皇陛下の前で披露するほどまでに認められた。

彼らは皆技術的に何かがすばらしいのではなく、生き生きとした人生を私たちに魅せつけてくれていて、だからこそ感動するのである。

すべてのピアニストは、ホテルの高級料理を目指すのではなく、鮮度の高い鮮やかな音楽を目指すべきである。そんな生の演奏を披露してくれるかそ、その音楽が無限に輝くのである。

ということを改めて感じたので、ここに記すことにしました。昨日買った「ミスタッチを恐れるな」という本を読んで、その思いが正しいんじゃないかと、再度思ったので、こんな思いが浮かんできたんだと思います。

未来の心配なんかよりも、今を生きること。未来は今がつながっているにすぎないこと。

音楽っていうのは本当にすばらしいです。

さて、ピアノの練習をしようかなぁ♩

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