人それぞれの運命や宿命

息子がピアノを習うようになり、それなりに習得し、絶対音感もあることもあり、ピアニストを意識することがあります。

もともと私はいわゆる「ミュージシャン」というものに憧れがあり、ギターを弾き、バンド活動を学生時代やっていたこともあり、音楽でご飯を食べるというものに憧れた時期があったからです。

ピアニストとして活躍できる人というのを調べてみると、ごくわずかであり、それ以外の音楽活動やピアノ先生や幼稚園の先生など、先生としての仕事に就くのが普通のようです。

いずれにしても、芸能人のように一部の人間しか活躍できないような憧れの職業として、ピアニストというものも位置しているわけですね。

さて話を戻しまして、私がその学生のころの話なんですが。絶対音感というのがあれば、もっと私の演奏は柔軟性がでて、いい曲がかけるだろう、ピアノが弾ければもっとクラシカルな曲やソロも弾けるだろう、なーんて無いものねだりをしていました。

何度も書きますが、はっきりいって、これ、無いものねだりです。

他の人にあるものを、欲しがる時点で、自分の負けへの道が始まってしまっていたと今は思えます。

必要な人には、必要な能力がその時々で、備わっているものであるということも、最近私は理解できてきています。ピアノやそれ以外の才能というものにも強くそれを感じます。

私の息子には、絶対音感もあり、ピアノの演奏もまあまぁ、小学校の学年オーディションでピアノ担当を一番でもらえる、推薦をえてコンクールに出場する、といったことが、あたりまえに起こっていますが、これは私が意図的に、強制したものではなく、自然に流れている流れなんです。

今でこそ、私が昔楽器をやっていた頃の経験を活かして、子供の演奏について、あれこれ口を出す機会が増えてきてはいますが、それだって私自信が音楽をそれなりにやっていなければ、口を出さない、父親でしかなかったわけで、うちの息子には、特別といえば、特別の環境となるわけです。

もちろん、そもそも両親がすでに音楽家であり、スタインウェイが自宅にあるというような子供もいるでしょうか、比較をすれば、いろいろとあるでしょう。

それでも、自分自身と比較すれば、音楽というものに向き合う流れがそもそもあるか、そうでないかという点で、人それぞれそもそも運命や宿命といったものはあるんじゃないのか、と感じさせるには十分だと感じたわけです。

だから、自分の子供をピアニストにしたいとか、そうやって恣意的に子供を仕向けるようにするっていうのって、厳しいことなんだと強く思うんですね。

そういう人生の道を歩むひとには、そういう流れが必ずできていくんだと思います。

ピアニストの辻井信行さんは、盲目にも関わらず、ピアニストになりました。盲目である人すべてが、ピアニストになるわけでないのだから、彼がピアニストになったことは必然であったとしか私は考えられません。

私が期待しようが、しまいが、子供はそれぞれの道を進むそれだけだし、私自信も努力しようがしまいが、やるべきことはやらなきゃいけないし、そうでないものはやらないしで、自然と人それぞれの道があらわれるものだと、最近は感じています。

 

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