ベートーベン

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※「⇒」以降に続く文章は個人的感想です。
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おさえておきたいポイント

ㇾ ドイツの作曲家
ㇾ J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家
ㇾ 古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆け
ㇾ ピアノ演奏の革命家

⇒古典派音楽の代表者というとハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンがいます。ハイドンやモーツァルトは有名ですが、ピアノを習う人たちが必ず通る、ソナチネ、その作者である、クーラウやクレメンティも古典派です。

小学校の音楽の時間に習う、いかにもクラシックというやつですね。

プロフィール

生涯:1770年12月16日頃 – 1827年3月26日(享年56歳)

死因:肝硬変

先生:クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ
(オペラ作曲家、指揮者、オルガニスト)

師匠:ハイドン
(オーストリアの作曲家)

⇒先生はオペラ作曲家で、オルガニストだったんですね。後述しますが、ハイドンは師匠となっていますが、先生として認めてはいなかったようです。これには、おもしろいエピソードがあります。

家族

父:ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン
(ドイツの音楽家、教育者)

母:マリア・マグダレーナ
(宮廷料理人の娘)

生涯

父親は宮廷歌手でしたが、収入が少ない中でお酒好きだっため、生活には困っていたそうです。基本的には、お爺ちゃんの収入で暮らす家庭であったため、お爺ちゃんが亡くなるとと生活は困窮していったらしいです。

父親は、4歳頃から息子であるベートーヴェンの才能を見出し、スパルタ教育をしたそうです。その熱の入れようは、音楽が嫌いになるほどだったらしいです。

⇒この話、ベートーヴェンに限った話でない気がします。今もそんな父親がいるから、天才は生まれるのかもしれませんね。。。

8歳で演奏会に出演、11歳でオペラ作曲家であるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事します。

⇒生活環境は最悪でしたが、音楽の勉強は強制ではありますが、かなり早い時期から学んだということになります。

16歳のとき、憧れのモーツァルト(31歳)に会います。ピアノ演奏を聴いてもらい、即興演奏を認めてもらえるのです。

⇒その業界の有名人に出会って認めてもらい。君には、すごい才能があると言われたら、それは、天にも上るうれしさだったに違いありません。しかし、この後に待つのは悲劇でした。

母親が肺結核で亡くなり、生後7か月の妹も亡くなります。父は歌を職業とするのに声が衰え始めていました。

お酒が大好きだったのですが、妻の死が、ヤケ酒を飲む日々へと変わってしまい、ついに父親はアル中で失職します。

そんな中で、ベートーベンは、父と幼い兄弟のため、仕事を掛け持ちして家計を支えることになります。

この時の仕事は、
・宮廷のオルガン奏者
・ブロイニング家の音楽教師
・楽団のビオラ奏者

⇒憧れの人に16歳で会い、演奏を求めてもらえたのですから、相当テンションは上がっていたことでしょう。ところが、家庭の事情で16歳から何かしら仕事をせざるを得ない状況になってしまいました。

⇒裕福ではない家庭で、若いうちから仕事をする。そんな中で音楽家になったなということですから、才能は天才級だったに間違いありません。現代で音楽を学ぶと言ったら、音楽大学があると思いますが、音楽の仕事をしながら音楽大学に行ったと考えるなら、苦学生であったということに違いがないでしょう。

21歳のとき、ハイドンに弟子入りをします。ところが、弟子入りのためウィーンに旅立った後、父が亡くなります。君主の好意により、父の年金の継続が決まり、作曲の勉強を続けることができます。

⇒この時のベートーベン、ハイドンについては、音楽に熱意や誠意がなくがっかりだったようです。ただ、年齢にして50歳を超えていたハイドンですから、熱意とか誠意が無くなっているのは、普通という気もします。

また、この時、ベートーヴェンは、対位法の教師として知られる、シェンクという作曲家にも教わることになります。ベートーヴェンの作曲ノートをたまたま見て、ハイドンが見過ごした、正すべきところを教えてくれます。

⇒才能のある人には、先生達の援助も厚いというのは、今も昔もかわらないようです。シェンクは授業料無し、かつハイドンには内緒で、教えてくれたそうです。

この頃のヨーロッパにはフランス革命が起きていました。1794年の秋(24歳)の時には、ボンに革命フランス軍が攻め入り、ベートーヴェンの友人や兄弟もウィーンに移動することになります。

ベートーベンが公共の場にデビューしたのは、1795年3月、24歳の時です。気むずかしいベートーヴェンですが、まもなくピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博したそうです。1796年には、演奏旅行にも出かけています。

⇒16歳から音楽の下積みバイト生活を続け苦労をし22歳でプロに認められたという感じでしょうか。アマチュアバンドのどん底から成功までの道のりみたいなドラマ性を感じます。

26歳の頃のに、重い発疹チフスにかかりました。精神錯乱を伴う熱病とされていた当時、その中で、レッスン、演奏会、作曲などを続けました。

ベートーベンの時代までは、音楽家は基本的に雇われの時代で、書けと言われる音楽を書いてきましたが、フランス革命が起きる中で社会が変化し、雇われから、自分のやりたい音楽を拾うし、名声を得られる時代へと変わっていました。

新しい楽器や新しいオーケストラも出現し、その中で独自の作品を作ってけることができたのも、社会変化のおかげでした。

⇒収入がないとやっていけない生活が続いていたわけですね。

20代後半から軟調が悪化、28歳には、最高度難聴者となる。32歳で自殺も考えたが、自信の芸術への強い情熱を持って乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくこととなる。

⇒どん底の生活から抜け出てプロデビュー。一躍プロとして活躍していたのに、すぐに最悪の難聴になってしまうなんて辛すぎませんか?若い時から家族のために自分の人生を犠牲にしながら、その中で掴んだスター街道。神は見捨てなかったと幸せからの最悪な結末に。こんなことがあったら、自分の人生に失望して、自殺を考えるのもうなづけますよね。

チェルニー少年へのレッスン

後に、日本人ピアニストなら誰もがお世話になるチェルニー少年に、やさしくピアノのレッスンをしています。ベートーヴェンは彼の演奏に満足し、彼を自分の弟子と向かえることを決め、自分のテクニックを伝えています。

ピアノ演奏の革命家であるベートーヴェン

新しく登場したピアノフォルテ。それまでのクラビコードとは演奏方法が変わっています。音の強弱や中間音の表現ができるようになり、さらにはペダルによる表現も加わります。

「指は曲げたままで鍵盤におく」と教え始めたのもベートーヴェンです。それまでは、「指を上げてまっすぐ伸ばしておく」と教えていたようです。

つまり、現代のピアノに通じる演奏法を始めたのは、実はベートーヴェンだったということになります。

⇒これ知ってました?現代のピアニストが当たり前のようにやっている演奏スタイルの基本は、ベートーヴェンから始まったということです。たまたま、ピアノフォルテが誕生するタイミングにいただけでは?感じる人もいるとは思いますが、新しい道具が生まれたから、すぐに対応できるかというと、古臭いスタイルを続ける人もかなりいるはずなので、私はすごいなとかんじました。

34歳で「交響曲第3番」を発表。以降、傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

30代は途中から順調だったということですね。最悪を乗り越えた後には、実りがあるという話を聞くことがありますが、まさにベートーベンにとっては聴覚を失った後が、その最高な時期だったということになるんでしょうね。ただ、仕事としてピアノを弾くのはやめてるんですね。

40歳で完全な聴覚障碍者となり、さらに腹痛や下痢にも苦しめられた。さらには、自殺未遂を起こすなど問題を抱える甥の後見人として苦悩する。その中で、交響曲第9番や大作「ミサ・ソレムニス」、ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲等の作品を書き上げた。

⇒もうこれすごすぎますよね。作曲は、部屋にこもってできる仕事だと思うので、体がつらくても仕事をすることは可能だとは思いますが、常に苦労がつきまとう人生じゃないですか。16歳から家族のために苦労して働いてきたからこそ、その中での偉業を達成できたのかもしれません。生きることや、希望がテーマだったのかなぁ?

⇒誰でも知ってる「運命」ってそういうことだったのかぁと納得してしまいました。

56歳で肺炎を患い、黄疸も併発、病気で倒れる。病床の中で、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま、1827年3月26日に肝硬変のため、56年の生涯をおえる。葬儀には2万人もの人が参列する。

 

⇒当時の2万人がどのくらい大変なのかはわからないですが、テレビもラジオもなかったはずなので、その中の2万人はすごい気がします。大ヒット音楽家の死という感じだったんでしょうかね。

作風

初期:古典派

中期:ロマン派音楽の先駆け

後期:ポリフォニーを研究

⇒正直、一般人には、よくわからないのが、作風です。初期の頃は、ハイドンやモーツァルトの影響を受けていたという話もあり、これってアマチュア時代はとりあえずオマージュ的に似ている曲を作っていたという感じでしょうか。中期、後期になるにつれ、自分の音楽を見出し、「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式を作ったといいますから、まずは暗い人生から輝く未来に向かったベートーヴェン自身の経験が音楽になったのではないかなぁと印象を受けました。

人物

ㇾ 身長は165cmと小柄
ㇾ 中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格
ㇾ 多彩な女性関係

⇒16歳の時から働いてしっかりしていただろうし、容姿はほどほど。収入がある音楽ヒットメーカーとなれば、女性にもてるのは普通でしょうね。

ㇾ 服装には無頓着
ㇾ 黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている

⇒家庭環境をみると服装に気をつけるような環境でなかったことは想像できますね。

ㇾ 弟子には、あの練習曲を作ったツェルニー

⇒ツェルニーといえば、日本のピアノ学習者は、ほぼすべて使うことになるツェルニーの練習曲ですよね。ベートーベンの弟子にツェルニーがいたなんて驚きですよね。

ㇾ 部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好き
ㇾ 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった

⇒潔癖や綺麗好きに関しては、病気も影響していたと思いますね。普段病気を抱えている人と言うのは、どうにかその病気を良くしたいという思いがありますから、清潔でいようとするのは普通かなと私は感じました。

ㇾ  生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返した
ㇾ  当時のウィーンでは変わり者であることを知らない者はいなかった
ㇾ  性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった

⇒変わり者というより、印象としては、自分らしくいた人のような印象ですね。引っ越しの理由が知りたいですね。インスピレーションのためかな?

ㇾ  癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあった

⇒病気の影響もあったきもしますね。常に痛みなどがあると、そういう感じです。

ㇾ 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた

⇒自分に自信がないとこれできないですね。今時のサラリーマンは上司にこびて生きるのが普通ですが、個人事業主的に果敢に生きてる姿を想像してしまいました。

ㇾ パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。

⇒これ先ほどの自信が仇となったケースですかね。今も変わらない富裕層には残念ながら勝てない資本主義という最悪な世界の現実ですね。そこで戦ったこと自体がすばらしいのかもしれませんね。庶民から成り上がりであるベートーヴェンらしい気もしました。

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