百日祭 -母が亡くなってから約100日目-

昨日の2/24は、母の百日祭でした。

故母親の神様の祭りということで、風習の一つなのですが、普段気にすることのない、神式での祭事を行いました。

清祓いの儀を行い、祝詞奏上、玉串奉奠、会食

これが百日祭の流れです。

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昨日から考えが変わって当然と認め、今日の考えに従う

  • 昨日と言ってることが違う
  • 去年と言ってることが違う
  • 考えをすぐ変えるね?
  • 自分がないの?

考え方を変えたり、昨日までと違うことを言うと、人は「昨日までと言っていることが違う」と、考えを変えることを悪いことのように言うことがあります。

でも、それって、本当に悪いことなのでしょうか?

政治家が、昨日までは、農業が大事だと言っていたのに、ある日を境に突然、「農業はもう大事じゃない、それよりも産業が大事だ」と手のひらを返したように、言うことがあり、そのような場合は、悲観や失望から、考えを新たにしたことを批判されたりします。

確かに、 実態として国民の総意を受けとめることなどできるはずもなく、全体としてよい方向に舵を採ることが仕事の政治家が、毎日考えを変えていたら、国民が振り回されてしまいますから、政治家が考えを変えることは、よくありません。

しかし、個人の場合は、そうなのでしょうか?

人間個人は毎日のようにうまくいかないことに出会い、苦しみ、失敗をしてしまうものです。失敗した後で、まったく同じことを繰り返していたら、また、失敗してしまうのです。

失敗を成功に変えるには、何かを変えなければいけません。

つまり、個人の場合は、考えを変えて当然だということを私は感じております。

また、パソコンのOS、スマホのOS、最近のアプリ、ゲームアプリ等々、それぞれは、常々アップデートを繰り返しています。

ソフトウェアにおいては、毎日のようにアップデートが繰り返えされ、より良いものになっていくことを実感される方は多いのではないかと思います。

これと同じことが、人にも言えるのではないでしょうか?

個人の考えも毎日少しづつ変えることは、全然悪くないのはないでしょうか

このことを考えた時、私達は、その日に浮かんだ考えこそが、常に最新化された考えとして、受け止めていいのではないかと感じています。

  • もう、それはやらないことに決めた
  • 明日からはこれをやる
  • つまらないから、やらない
  • やーめた

このような考えは、私達の中から毎日のように浮かび上がるものですが、このような「やらないという気持ち」であっても、それなりに理由がある場合があるのだと感じます。

なんでやめるの?
なんでやらないの?

すぐに、親・先生・先輩・上司・社長、といった外野は、考えることに対して、やめることを否定して試してきますが、何かしら、考えを変えたということには、それなりの考えがあるのが、普通のことであり、それが筋の通った考えなのかを、検証するのが、役割です。

しかし、ただただ、やめるということだけを、やめさせるための動きがとられることも多く、そのような場合、先人としての配慮が足りないなと感じることが多々あります。

私は、昨日からの考えを改め、今日の考えに従うことこそが、世界をよりよくするための原動力になるのではないかと、考えております。

今日できること、今日感じたこと、今日自分の心から生まれたものを大事にする

今日の自分とは、何なのでしょうか?

昨日までのことを思い出して、あんなことしなければよかった

過去の行いのことを思い出して、変わらないものを悩む

昨日までと言っていたことと正反対のことが正しいと思えてくる

昨日までやっていたことが大事に思えなくて、他のことをやりたくなる

昔立てた自分の目標や宣言した約束と違うので、今の自分は正しくない、迷いごとだと考え、今日生まれた考えを否定しようとする

自問自答する

毎日生きているだけでも、いろんなことが考えられます。それは、学校の授業中でも、仕事中でも、休憩中でも、電車の中でも、運転中でも、トイレやお風呂の中でも、どこでも、考える余裕が人間にはあるので、考えることができるのです。

しかし、考えることができるということは、考えなくていいものまで考えてしまうということでもあり、精神の病気になる原因にもなったりします。

自分の心の状態の悪いときに生まれたことは、たいていよくない考えです。

しかし、朝から掃除をし、身支度を整え、できれば瞑想をし、こころを落ち着けた状態で生まれたものであれば、それはそれ相応に、自分にとって正しい考えとなると、私は感じています。

・昨日までは掃除をやろうと思ってたのに、今日は勉強すべきだと朝思った

・朝はいつもパンなのに、御飯が食べたくなった

大事だと思うことからそうではないものまで、実際にやってみて思い通りになること、そうでないこと、その日にならないとわからないことも多いと感じます。

今日できたこととは?

今日できることは、今日できる運命となっていたもの、今日できないものは、今日できない運命となっていたもの、やらなければいけないことは、おのずと体がそのように動き達成され、その日にやらなくてよかったものは、おのずと体が動かず達成しないものでもあります。

怠け心が何かをやらないような動きをしているのではなく、結局やらなくいいことだから、やらないというようなことがたくさんある気がします。

子供の頃勉強を頑張る人は、勉強を頑張りたいと心から思っていたはずですし、子供の頃勉強が嫌いという人は、心の底から、やる必要がないと考えていたはずなのです。

今日、何をするのが大事かを、が知っている、伝えているからこそ、今日できることは、できる運命にあったのではないかと感じることさえあります。

今日の心に素直に従っていい

風邪をひいて辛いけれど、出社して迷惑がかかるから、心の底から無理して出社したいと思うなら、出社すればいいし、無理して出社したくないのなら、出社しなくていい

今日やろうと思っていたことがあったけど、他にやることができたのでやれなかったのなら、実はそれをやるべき日だった

心がすっきりとする、もやもやとする気持ちがないところまでの最善を尽くせば、それは、何かができなかったとしても、正しかったのではないかと私は考えています。

心がすっきりとしているとき、その心は正しかったとなると考えています。

さらにわかった「生きること」の意味

なんのために生きるのか?

これまでの過去の人生において、私が生きる意味として認識していたものを掲載してみると次のようなものがありました。

  • 生きてるから生きる
  • 欲しいものを手に入れたいから生きる
  • 支払いがあるから生きる
  • 子供を育てなければいけないから生きる
  • みんなが普通にいきてるから生きる

生きる意味を考えることは意味がないとブッダは言っていた、という話を読んだことがありますが、その意味がようやく私でも、わかるようになってきました。

既に肉親の死を知っている人にとっては、当たり前のことかと感じますが、未熟な私も、母の死を知ることで、この世で価値あるものとは何かが、改めて理解できるようになりました。

テレビやネットなどの数々の広告・コマーシャルは、私達を欲望の誘惑に誘っていますが、それすらも、どうやら今の私には、響かなくなってきました

そんな価値のないものをよくぞ広告できるなと、感じるくらいです。

そんな中で、どうして私は生きるのか、さらにそれを理解できるようになりましたので、そのことを記録として残したいと思います。

まず、なんでこのような心境になったかを書いてみましょう。

なんでこのような心境になったのか?

これまで当たり前にあると思ったものが、当たり前でないことに気づいた

最初から答えを書いてしまいますが、「いつまでも、あると思うな、親と金」という言葉を私は聞いて育ちましたが、お金よりも先に、昨年母が亡くなりました。

今の時代医療が進み、80代くらいまで生きるのが普通の時代と感じていたので、私の母もまだまだ生きるのではないかと思っていました。ところが、60代半ばで私の母はこの世を去りました。

まだ、受け入れられてないのか、昨日も夢で見てしまいました。しかし、現実には、私の前で当たり前のものが亡くなるということが起きてしまいました。

世界には、戦争が今もあるような国があり、そこでは家族、親戚といった肉親が負傷したり、死んだりする姿があるのでしょう。

空爆という正義の言葉で、殺しを行っている中で、それは起きているのです。

経済という麻薬が人々からその現実を見えなくしていますが、事実存在しているのです。

当たり前と思ったことが、なくなったとき、無常の意味が際立ちます。

生きることの意味

それは次のようなものだと、今の私は感じております。

  • 今日できること、今日感じたこと、今日生まれたものを大事にする
  • 昨日から考えが変わって当然と認め、その考えに従う
  • それらを大事にする
  • できないことをみせつけられたって気にしない
  • できると思ったことが、できなかったとしても気にしない
  • 自分の心と精神を保つこと、タイミングがると知ること
  • 自分の心の奥底にある本当に心に従い、ほんのちょっとの勇気で、自分の現実を変えていくこと

これだけです。それでは、次回、これらのことをもう少し丁寧に書いてみたいと思います。