仕事の内容は自分で決められない

ㇾ 学校が教えることと職場が求めているもの

ㇾ やりたいことができない現実
(自分の適性と他人の適性)

ㇾ 管理職はロボットを管理しているに等しい
(誰も個人を見ていない)

ㇾ 使い捨ての東京村社会
(サラリーマンは使用人)

ㇾ そこに価値があるか?

学校が教えることと職場が求めているもの

両親が学校に教育費を支払い、学校が教えてくれることが、この日本社会には存在します。また、それとは真逆の、職場が教えてくれることが、この日本社会に存在ます。

その違いを一言で言えば、理想と現実。

あるいは、過去と現在。

そういったところでしょうか?

日本の学生は、義務教育に強制的に参加し、ある年齢になると、学校での進路指導が始まり、勉強だけだった学校から、就職して働くということに向けた指導を受けて働きだします。

一見、教育と就職には関連があるのではないか?と感じられますが、しかし、そこに関連性がほとんどありません。

学生時代には、学校が勧めた就職先に、学校で学んだことが活かせる場所があるだろうと考えるものですが、そのような場所は基本的にはありません。

会社というのは、利益を求める場所であり、そのために必要なことをやらなければいけません。正社員となると、確実に、どんなことでこなさなければいけないことになります。

個性を大事にする、個人を尊重すると、会社は言いますが、そんなことは、言っているだけであり、職場は学校ではないのですから、そんなことは理想論でしかありません。

会社が求めているのは、成果、納期、そして、売り上げです。

それ以上でもそれ以下でもありません。

利益を得るために人力が必要だからこそ、企業は社員を求めているだけです。人間ではなく、ロボットに任せた方が良い仕事は、ロボットに任せられています。外国から買った方が安い仕事は、外国から買います。

それが、会社という場所です。

私は、その現実を、学生の頃から理解していましたし、ビジネスとは、お金を手に入れる、戦争の変りにやっている、代理戦争のようなものだと感じていましたので、これについては仕方がないと感じていました。

でも、この割り切りを、割り切れていなかったことが、鬱になった後でわかりました。

やりたいことができない現実

私はこういう働き方がしたいなんて、夢を見ている学生さんは、学校がそのようなコマーシャルで生徒を募集しているので、だまされたまま学校に入学してしまいます。

しかし、やりたいことが、できる場所は、基本的に探してもありません。自分で作るモノなのです。

よく転職の理由で、やりたいことができないということが挙げられていますが、やりたいことをやるには、やりたいことができる環境を作らない限り、無理なのです。

誰かが、これをやってくれる人いないかな?と人探しているからこそ、仕事があるわけで、そのタイミング、場所にあなたが、マッチすることなんてほとんどあり得ません。

なので、やりたいことができる職場は、基本的にはありません。

やりたいことに似ている仕事をやりたいことに近い仕事だからとやるのが大半です。

私は、やりたいことが、会社ではできないことを理解して就職しました。就職の氷河期といわれた2000年前後の就職だったため、募集がある仕事の中から、選んだのでした。

完全に割り切って働き始めました。

でも、この割り切りも、鬱になった後で、無理をしていたことに気づきます。

管理職はロボットを管理しているに等しい

会社の管理職になると、人望も厚く、皆からも尊敬された、立派な人物なのではないかと、学生の頃は思っていたのですが、現実はまったく違いました。

売り上げのため、利益のため、会社に貢献するために、最高の動きをするロボットが管理職であり、人である必要はありません。

人が会社を休めば、理由によらずどうにかして、穴を埋め、納期に間に合わせる。使えない人間は、排除する。時には、自分が、土曜日だろうが、日曜日だろうが、出社して穴を埋める。

人を育てることもあるが、基本的には、育つ人間だけ育てる。

それが、会社という場所で望まれる管理職の王道パターンです。

私は、会社に就職して間もなく、職場の管理職の異常さを感じました。管理職には絶対になりたくないと、半年で思いました。しかし、私はいつかは辞めようと思いながらも、就職の氷河期であったこと、結婚を控えていたこと、など、様々な理由で働き続けます。

それでも、いつかは、いいことがあるはずだと、一生懸命働いていた自分を思い返すことができます。

使い捨ての東京村社会

私は、高学歴な人や帰国子女が集まる、エリート企業とされる会社で働いていました。

しかし、そこにあったのは、優秀なソリューションではなく、利益を求める口先だけの魔術師集団の巣でした。

顧客のために働くことをスローガンとしていましたが、そのために社員の犠牲は半端ないものでした。

休日返上で働くのは当たり前、体調不良で休むなら代わりを探せと言われ、外部協力会社と仕事をしている際には、単価が安いから能力が低いのは当たり前だなぁと私は感じながらも、上司はダメなら使えるやつを探すから言ってねと、言う始末。

職場というところは、とんでもないことを実感したのでした。

私は、人口5万人程度の農村の集落で育ちました、過疎化は今も進んでおらず、細々と続いている場所ではありましたが、このような腐った考え方は、どこにもない集落でした。

人を人と思わない東京に、2年で絶望を抱きながらも、16年も働けば、病気になるのも仕方なかったなと今では思います。

そこに価値があるか?

働いて得れるものは、給料ですね。

私は、エリート会社に勤めていたことをお伝えしましたが、文字通り、給料は良かったです。

給料だけは、よい会社だったと思います。

ですが、そこに何があるのでしょうか?

息苦しい毎日、辛い仕事、帰っても寝て、また仕事に行くだけ。

他の人よりも1.5倍から2倍の給料がもらえても、1.5倍から2倍の苦しみがあったら、そんな人生良いと思いますか?

また、収入が多いことは、税金を多くとられることを意味します。果たして、サラリーマンの人生に価値があるのか?

そう思ったのは、働き始めて5年以内だったと思います。

むすび

仕事の内容が、自分で決められないことが、鬱につながるをテーマに記事を書いてみました。

新たな章を書くたびに、なんで働いていたのかわからなくなりました。

生活に喜びを創る、楽しい時間を過ごす、未来のために頑張る

そのような現実が、目の前にあれば、誰も「うつ病」にはなりません。

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