生きるためにお金が必要ということの意味

私たちは、少なくとも日本人に生まれ、気づくと、勉強して、仕事をしないといけないということをなんとなく理解して、がんばるような感じで生きることになる。

10代も、20代も、30代もそうだ。

けれど、どんな境遇だったとしても、あなたの産んでくれた人、育ててくれた人、すべての関わった人も生きていて、すべての人がそれぞれの人生を持っている。

税金を始めとした、生きているとお金が必要となるように奪われる仕組みが、否応なしに、この日本には存在するけれど、かりにこのお金を奪われる仕組みがなかったらどうなのだろうか。働く理由がなくなったらどうなるのだろうか。

どんな理由であれ、お金を得る、そして使うという活動をすれば、その中で、自分以外の人とのかかわりがでてくる。仕事をすれば、当然のようにその仕事をする場所での人とのかかわりがでてくる。お金を使うときだって、契約をしたり、単純にものを買ったりしたときだって、誰かしらにはかかわりを持つことになる。

全部自分でやる、ということがない限り、誰かとかかわりを持つのがこの日本、いや地球という場所のルールということが、言えるのではないだろうか。

そう、ここまで書いてきたが、お金というものも、実は誰かとかかわりを持つことの一つの側面でしかないのではないかと思う。

たとえ60億円のお金を手にしたとしても、使うときには誰かとのかかわりを持つことになるし、死んで誰かに相続なり、奪われることになったとしても、あの世には持っていないのだから、誰かに使われるだけである。

今は、この着想が生まれた段階なので、今回のブログの中で整理して書くことはできないけれど、そもそも家族や肉親ですら、お金に関してトラブルが生まれるようなこの世界は、そのように作られている。そうやって生きるようなシステムが存在するということは、できあがっているということでもある。

お金が存在することで、いろいろなやるべきことが生まれ、それを仲介して活動の理由、生きる理由につながるようにできているとすれば、それはなくてはならないシステムなのかもしれない。

生まれたときにあった資産や、年間の収入が多ければ、救われるかというとそうではなく、どんなにお金があろうが悩みはあり、お金がなくても悩みがあり、悩みを保有し続けるのが人間なのであるのだが、そう気づいたのは私もある程度たってからであり、それでもお金の意味の深さを今も感じている。

そもそも、家族だけでこの世界はまわっておらず、いろんな人が存在することでまわっているのだから、その中でどんんだけお金を集め、家族のために残したとしても、地球のすべての人が家族と考えるのであれば、お金を集めようが、集めまいが、いずれにしても、同じなんじゃないかと思う。

整理する時間がないので、この辺で切り上げるが、お金を理由に生きていることはないということ。お金があってもなくても、それでも人とのかかわりをもって学ぶような場所が、この世界であること。そのあたりのことは、間違いなく、あるんじゃないかと考えた朝のブログです。

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