釣りと東日本大震災

更新

私は6歳のころから川釣りを始め20代前半までバスフィッシングをやっていて就職と共に釣りは止めていましたが、2009年頃子供が3歳~4歳の頃に海釣りを始めそして、このサイトを作り始めました。

皆さん、訪問ありがとうございます。

何でこんなことを書き始めているのかといえば、あの東日本大震災について、振り返り書いてみようと思ったからです。このサイトは、その震災以降、更新があまりできなくなりました。理由は、皆さんの想像どおりです。

私は311のあの日、会社を休み、まさに大洗へ釣りに行くために車に乗り込もうとしたところで、あの大きな揺れにあいました。幸い、頭上からなにも落ちてくることも無く、家族も無事、車も無事ではありましたが、自宅マンションは隣接するマンションに近いなどあり「ガッコン、ガッコン」と建物あるいは、建物と電信柱がぶつかる音に、これはただならぬ地震が起きたと感じたのでした。

その後、行くのを中止にしたというよりも、不安からすぐに自宅に戻り、ニュース番組の報道を求めたのでした。このとき、宿泊先の予約を取り消すことを通常の私であればするのですが、そんなことが頭に浮かばないくらいびっくりしていたことを覚えています。

しかし、今思えば、なぜがつきまといます。なぜ、会社を休んだ日だったのか、なぜまさに大洗に行こうという出発時点、中止できるタイミングで地震に私はあったのか。釣りの最中に遭遇する可能性だってあったはずなのに。

この日は交通機関が狂い、マンションの目の前の道を歩いて帰る人々が大勢いたのを覚えています。

また、この日私は停電にあうこともなく、テレビを見続けられていました。

翌日(3.12)

私は、埼玉の実家が気になって帰ることに決めました。電話がつながったのか、つながらなかったのか覚えてはいないのですが、いずれにしても実家に帰って、お互いの無事を確認したことを覚えています。そして、近所の家の瓦が落ちてしまって、ブルーシートで覆われた屋根があちらこちらに出現していたことも覚えています。

その頃だったでしょうか、急に原発って大丈夫なんだっけ?と思ったのは。報道はされていたか、忘れましたが、福島といえば原発があることを知っていました。茨城に釣りに行く私は、東海村などの前を通ることがありました。小学生の頃、はだしのゲンを読んでいたこともあり、放射能についての恐ろしさを知っていたこと、また、大学で原子力発電の授業を受けましたが、それでも恐ろしさは無くなっていなかったこともあり、東海村の近くを車で通る際も、今思えばなんともないことなのですが、気をつけて走っていたことを覚えています。

その福島の原発が、大丈夫なのかなぁとうっすら浮かんでいました。その日だったと思います。

3日目(3.13)

自宅が無事だったこと。それでも仕事があること。両親にも、マンションに何も被害ないんだから頑張れと言われたこともあり、なぜか久々に怒られたような印象で自宅に戻ったのを覚えています。マンションの上の方の階では、レンガがかけ落ちたり、門が壊れたり、被害はでていたようですが、私の部屋は2階で壊れるなどの被害はなかったのです。

そして、たぶんその帰宅の車のラジオのニュースだったのか、原発の様子が普通ではないようなことを伝えていたのでした。

4日目(3.14)

幼稚園に通っていた子供達も、震災影響で休みになっていたと思います。ですが、私は休み明けの月曜日の出社となり、ちょっと憂鬱だったのを覚えています。現場にいませんでしたから、ちょっと後ろめたい気持ちもあったと思います。

そして、この日「輪番停電」という耳慣れない言葉を耳にすることになったのです。そして、この日だったでしょう、爆発のニュースが飛び混んできたのは。

爆破のニュースを受け放射能が飛んでくることを私は予想できていたので、水の購入をはじめていました。この時点では、水道水が汚染されることを誰も予想していなかったので、普通に買えたのを覚えています。

5日目(3.15)

この日、年中の子供が卒園式に参加することになっていたのですが、欠席させます。爆発を受け、関東に放射能が飛んでくることがわかっていたからです。マンションの空気口を塞ぎ、可能であれば家にいることを家族に伝え、私は仕事に行きました。東京に放射能がやってくることはわかっていたので、いやだなぁと思いましたが、しかたがないのでマスクをして仕事に行ったことを覚えています。基本的にオフィスか、地下鉄にいれば、外よりはましとは思っていましたが、新宿の放射線量が上がったと報告された頃にタクシーに載って移動をしていたと思います。

またこの日、職場の外国人(主に中国系)の人々がほぼ全員国に帰ったことを聞きます。ただならぬ事態ということを改めて認識したことを覚えています。

6日目(3.16)

家族と一時避難の必要性を検討します。なかなか受け入れてもらえず、この日は避難する事はありませんでしたが。ことの重大さを再認識した日となりました。

週末

遂に祖母の家のある四国に車で向かいます。都心の多くの人は移動をしていないような報道がされていましたが、新幹線で一時避難する人、また高速道路のドライブインには、長期の移動を想定した荷物を積んだ車、マスクをする人々と、同じような一時的な避難をしているひとがいたことを覚えています。少なくはありませんでした。

翌週

私は仕事があるため、一人東京に戻って仕事に向かいます。まぁ何があっても自分だけならと思いがあったと思います。そして、恐れていた水道水の汚染のニュースもこの周くらいだったと思います。水を買うこともできなくなっていました。また、ガソリンの供給もストップしていたようで、ガソリンをいれるのにも並んで給油する事態になっていました。いざとなっても動けるようにという思いを私は持っていたのですが、そんな心理が他の人にもあったのかはわかりません。

メルトダウンについても、認め始めるようになったのもこの週当たりからだったと思います。ニュースで報道されないことを、ネットの専門家がネットで流し、報道がネットの情報に負ける事態になっていたことを、覚えています。3号機や4号機の爆発映像がなぜか日本のメディアからは出ていないということがありました。海外のメディアでは映像がでていることを知り、この国の問題を理解することになった時期でもありました。

翌週末

安全な魚介類を食べることは困難になるだろうということが予想されたので、四国で寿司を食べて、避難は中止し帰宅することを決断します。移住をする人がポツポツと出始めていた頃だったと思いますが、私はそれができる環境にないこと、また、まだそれを決断するほどの情報も明確でないこともあったと思います。ネットメディアのチェルノブイリの結果などとの比較分析と行き過ぎた悲観予測など、確かな情報を得ることはこのとき難しかったことを覚えていますが、それでも日本のメディアからはフィルターがかかった情報しかでないので、戦争が起きるとどうなるのかという一面を垣間見た、出来事であったと思います。

5月釣りに行く

3月4月は釣りに行きませんでした。もちろん放射能の影響がどの程度あるかわかっていなかったということも理由ではあります。しかし、行くほどの余裕もなかったのが、行かなかった理由です。そして、5月には釣りに行っていました。ただし、行き先は太平洋でも、原発からの流れ込みの少ないと思われた、神奈川でした。ただ、食べる気持ちにはならなかったことを覚えています。

釣りに行く気持ちが起こらなくなる

線量計を自分で買いました。空気口を塞いだ自宅の放射線量は0.05程度でした。しかし、外の放射線量をはかると、0.18とか0.22とか明らかに高いということが、目で理解できました。確実に、私の生活圏にあることを実感したときでもあります。

この頃、一般のガイガーカウンターは精度が低いとか言われはじめていたのですが、自宅と外との比較をして、違いが出るのに、精度の話が出てくるのは、とんでもなく嘘だと思えたのを覚えています。違いがあれば、あるということなんですからね。

ベクレル表記される魚達

メバル、スズキ、アジ、アユ、うなぎ、ニジマス、ソイ、など、私が楽しんできた釣り魚たちから、基準値を超える放射能汚染のニュースを聞くようになりました。驚きはしなかったのですが、釣っても自分で調べてまで食べるのは気が引けたので、さらに釣りにいく気にはなれなくなってきました。

といっても子供達が安全に遊べる場所を選んでいくことが増えていたので、釣りどころではなかったこともあります。

おかしなことが起こる

赤城の大沼だったか、榛名湖だったか忘れたのだけれども、ワカサギが釣れないとの情報があったと思う。死んだのか、情報を出さないための努力だったのかはわからないが、おかしなニュースではあった。真相は調べていないのでわからないけれど、おかしな話ではあった。

続く

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