他人の意見を尊重することがいいとされる社会のうそ

人生 哲学

「他人の意見を尊重しよう」そんな言葉があったことを私は、覚えています。小学校だったか、中学校だったか、昭和の時代には、そんな言葉が普通にあった気がします。

その意図としては、みんなの意見を取り入れれば、良い考えが集まり、世界がより良い世界になっていくという理想だったと思います。

そんなことを教えられていたような気がします。(ある意味、洗脳ですが・・・)

でも、社会人として十年以上働いた後の今の私からすると、それは、間違った教育ではないかと主張することができます。

今の社会は、言ったもん勝ちの世界になってしまいました。

他人の意見を意識した瞬間に、自分の思考が止まるなどしたら負けです。

如何に相手の意見が劣り、自分の意見が正しいかを考え続けるのが正解です。

相手の立場に立って考えた瞬間にスキが生まれ負けます

相手のことを考える余裕がない時代が到来している

既に日本は、日本ではない。そのように私は感じています。

もし、同じように相手のことを考える人間が集まったら、「相手の意見を尊重する」社会が成立したかもしれません。

しかし、二ホンはそうなりませんでした。外来種によって開国を迫られ、日本の教育はすべて覆され、教科書は燃やされ、江戸に開花したであろう平和の文化・生活は、もろくも消えてなくなる、家畜社会ができあがりました。

いがみ合うことが日常のような、勝ち負けばかりになってしまったこの社会において、他人の意見は蹴落とすべきものになり果ててしまっているのです。

それが、世界基準のスタンダードです。日本は劣化することで、世界標準になっているわけです。

そんな社会がまかり通っているからこその、うつ病ということだと、私は理解しています。

学校に教わったことを真に受けたら負けるのが今の社会なのですから。

劣化した二ホン社会

日本と二ホンを分けて考えなければいけないと考える時があります。

従来の日本を日本と呼び、新しい日本を二ホンと呼称したい。そのくらいの差が今の二ホンにはあります。

もちろんそんな二ホンで私は生きていきたくないし、存在もして欲しくないのですが、現実的にそのような二ホンが創り上げられてしまったので、残念ながらそれに対応した生き方をしなければなりません。

うつ病とは二ホンに対応できないから起きる病気

人と人とがお互いを尊重し合い、お互いの苦労をねぎらい、限りある資源を維持しながら努力でみんなが頑張る世界の日本はありません。

資本主義、グローバリズムで、奴隷制度が今だに続き、相手をいかに支配して、お金を巻き上げるか、それが主流の社会となっています。

つまり、世界大戦前と同じ、奴隷を作るシステムが、資本主義であり、株式であるわけです。

古来より続く日本では、「他人の意見を尊重しよう」という相手を思いやる言葉は、価値のある言葉でしたが、「他人は、服従させるために存在する」グローバルでは通用しません。

ルールが違うのです。

私の時代は、社会人になって、就職した瞬間に、日本文化が消える時代でしたが、最近の子供たちは、大学生、高校生、中学生のどこかのタイミングで、日本文化が消えた世界に入り込みます。

そこでは、学級崩壊があったり、不登校・差別・区別。世の中の動きと連動した、崩壊が見つかるのでしょう。

うつ病になったとき、社会の違和感を理解しよう

私はうつ病になったとき、上記のような二ホン社会の変化が背景にあることを意識しました。このブログを読んでいる方が、そのような印象を受けるかはわかりませんが、私は強く意識しました。

学校で習ったこと、団塊の世代の両親が信じていること、そのようなものは一切通用しない社会ができあがっていたからこそ、そこでうまく振舞えない自分が、うつ病として、無限ループに陥ったのです。

誰かが助けてくれる、私が思いやったように、誰かに親切にしていれば困ったときに助けてもらえる、そのようなことは、ありません。

ないことはありませんが、最前線にいけばいくほど、ほとんど、思いやりがなくなっています。

既に書いた通り、他人のことを考えて、思考停止になっているようでは、勝てないのです。

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