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なぜ、生まれたのか?

なぜ、生まれたのか?

私は、生まれてから、この問いをずっとしてきました。10代前半でやっていたと思います。そして、ずっと答えがあるかもしれないと期待していました。

けれど、それに答えなどないと、そもそもお釈迦様は、過去に悟られていたんです。同じ悩みを、19世紀末に生まれた私もやっていたわけですが、いまさら?と言われそうで、なんだか、恥ずかしいですね(笑)

誰か、このことを教えてくれる大人がいてくれたらよかったのですが、今となっては何十年も悩み馬鹿なことだったとも思いますが、もしかしたら、教えてもらっていても、腹落ちしていなかった(腑に落ちていない)可能性もあるので、この悩んだ十年が無駄ではなかったし、他人のせいとも思いません。

でも、よくよく考えてみると、生まれたことに意味がもしあるのなら、生まれたくありませんよね。

そもそも、生まれた瞬間に、あなたはこれをやって、何歳で死ぬ。そのために生まれました。ということが、文章として渡されるのだとしたら、生まれたくなんてありませんよね。

奴隷として働くために生まれたのか?

そうなってしまいます。

だとすれば、生まれたことに意味はないという理解は正しいはずだし、それしかないとも思えます。自由に好きなことをやり、うまくいかないそんな物質社会で学ぶ。

そのために生きているという先輩たちの教えは、正しいというか、そういうことだろうなという解釈で、理解できます。

そして、意味がないからこそ、自分で未来を選択できるのだということにもなるのです。

なぜ、生まれたのか?

と問われたら、自分で未来を選択し、創ることを学ぶために生まれたのだ

というのが現在の私の答えです。

「生きる」ことの意味がわからない

なぜ人は生きるのか?

私はずっとこれについて考えてきたのだけれども、結局のところ、そもそも、なぜ生まれたのかすら、偶然のことでしかない

つまり、極端な言い方をすれば、生きているから生きるだけでしかない

ただ、生き方というのは、両親を大先輩として、刷り込まれている部分もある

ということは、私が生きることの意味がわからないというのは、生きることの意味を、両親を始め、世間から得れなかったという言い方もできる

それでは、それは、なぜそうなのか?

そう考えて、過去を遡れば、人種差別の世界大戦の敗戦処理の中で、抹殺された日本人の精神に行き着くのではないか

最近はそう考えるようになってきている、つづきはまた

あれをしなくちゃいけない、世間は厳しいのよ、まだまだね

ご意見ありがとうございます。

生きていると、そして、何か人と違うことをすると、日本社会では、批判というご意見を比較的簡単にいただくことができます。

こうでなくてはいけないという、ご自身が体験されたことを、意識されていることを、また、どこかで教えられたこと、あるいは尊敬している方との違いを述べられるわけですね。

たおへん、ありがたいですね。

常に、こうあるべきと高い理想の元で、日々切磋琢磨して生きていると、そのような状態になるのは、当然でありましょうし、だからこそ、人は変われると思うんですよね。

ですが、そこには強いこだわりによる、不幸な思考も存在してしまいます。

永遠に完成しないパズルのように自分をとらえて生きていると、自由にのびのびと生きていくことができません。そう私は考えています。

多くのことができているのに、他人と比較して、できていなところがあると、そこが悪いんだという意識になってしまい、それで頭をいっぱいにしてしまうんですね。そうなるとそれは不幸なことです。

学校の成績の話であれば、国語、算数、理科、社会、英語とあって算数と理科は90点。国語と社会は80点。英語は50点。となると、私は英語ができないとなって、英語をまったく勉強しなくなったりしてしまうわけですね。

しかしです、今度は英語が100点だったりすると、今度は国語と社会はできないんだとなって、そればっかりを意識するようになったりするんですね。

マイナスなものを意識して、生きていってしまうんです。

それって、すごく辛いです。辛くないですか?

算数と理科は得意で90点も取れているです。なら、その算数と理科ができる自分を褒めてあげてもいいんじゃないかなぁ?

学校での話をするとそんな感じなので、よくわかるんじゃないかと思うですが、社会に出ても、そんなマイナス重視型の思考が、仕事でも生活でもつきまとってしまいがちなんですよね。

日本で生きていると。

でも、すでに私たち一人一人は、完全な形で、たぶん、我々って生きているんですね。

成績の良い部分も悪い部分もすべてそれが今の自分のありのままであり、成績で評価されない性格や知識も評価されないままであり、ぜーんぶひっくるめて、今ここにいるんですよね。

どれひとつとして、違ったら、今の自分じゃないんです。

あれをしなきゃいけないと、あれをしちゃったら、今の自分は消えてしまいます。

世間は厳しいので、世間に合わせると、世間に会う自分になってしまって、今の自分は失ってしまうんです。

まだまだねって自分を追い込んで、今の自分から先の自分になると、やっぱり、今の自分じゃなくなっちゃうんです。

それで、いいのかなぁ!?

今の自分が嫌いなら、変わってもいいです、でも、変わった先でも、同じことをきっとやるんですね。

あれをしなくちゃいけない、世間は厳しいのよ、まだまだね

そうやって生きることが、なんだか、今の日本では、当たり前のようになっていたりもするんですが、自分がない人生なんて、価値なんてなくないですか?

自分を好きになれない人生なんて、お金がどんなにあったって幸福を感じれないと、私は考えています。それならば、変わらずに、いまのままを楽しく生きる。

それだっていいーんですよね。

自分で、納得できるなら。いや納得しちゃっていいんだと思うです、心安らかでいられるなら。

今の自分は本当に嫌いなんだって、心から思い、何か別のものを求める人生もいいのだけれど、何か別のものを求め始めたときから、次々と別のものを求めるような思考になってしてしまいがちなんです。

そして、本当にやりたいことをやらない人生になってしまったりしまいます。

そもそもコントロールのできない人生を、自分の思い通りにできると、無理なこだわりを持ち始めてしまうことに、そもそもの無理があるのですが、自由に動ける体や思考があると、人生をコントロールできるじゃなないかと、思い上がったりもするんですよね。

人生やらなきゃいけないことなんて、実は何もないんです。すでに、生きているだけで素晴らしい。それ以上のことができたら、めっけもんです。

心を軽くすることを、選んで生きてもいいんです。

自分を否定することをやめていいんです。

あなたはすでに素晴らしいのですから!

[母]文句があるなら食べるんじゃないわよ!

今日朝から何気なく聞こえてきた

「文句があるなら食べるんじゃないわよ!」

これは、脅し文句である。

この言葉、日本の庶民生活の象徴というか、とても根深いものがあると思う。

朝飯の用意をしてくれた母親に、食事メニューの文句を言う息子。そんなときにこのフレーズは使われる。

これは日常よくある風景だと思う。私の母親からもよく言われたが、奥さんも同じことを言うのであるから、日本ではとてもメジャーなフレーズである。

他人から受けられるものにたいしては、何であれ感謝をすべきであり、母親さえもその対象であるということ、それを教えている何気ない生き方の指針でもある気がする。

そしてそれは、人からもらったものは、どんなに気に入らないものであれ、ありがたく受け取るべきなのであるということにもつながっているのである。

文句があるなら、

自分で働き、自分で動き、自分で欲しいものを手にいれなさい

そんなシンプルな教えが裏にある。

マクロ的に考えると、人間はつまるところ、主に米か小麦を加工した炭水化物を毎日食べているのであって、そのバリエーションに対して不満をいっていることは、意味がわからないことなのであるが、それでも毎日違う物が食べたかったりするのだから、変な生き物である。それはさておいて

この言葉を理解しているのであれば、人が行ったことのありとあらゆることについて、文句は言っていけない気もする。

たとえどんな結果であれあなたが依頼し、動いてくれた、仕事をしてくれた、使用人、部下、子供、親、上司、先生、誰であっても、他人様がやってくれたことに対しては、結果がどうであれ、感謝すべきなのである。

しかし、仕事の話となるとお金を払っているのだから、感謝なんていらないといった意見が存在しないこともない。

ただ、それはこの教訓とは異なる意見である。

依頼した本人がすでに、依頼すべき人、あるいは依頼内容の不足、もしくは依頼のタイミングの間違いをしているからこそ、結果が想定と異なっていたということに他ならないのである。

依頼したあなたが、すでに誤っていたのである。

すべてのことに文句を言いたくなるのであれば、その前に

すべて自分でやれ

ということである。これが日本人のあるべき生き方なのである。

口を開けば、すべてが批判になる。

批判する人間は、私は何もしていないんです!

と言っているのである。文句を言わずに、やるべきことを、今日もやっていきましょう。

人生でやるべきことは、あるのだろうか

人生でやるべきことを突き詰めると、結局最後に死があるのだから、なーんにも意味なんてないと考えることもできる

私は学生の頃そーんなことを考えていた。なので、やりたいことをやることが、結局は答えなんじゃないかと思っていた。

といっても、その実行というのは難しく、周りを見回せば、勉強をして、いい仕事に就いて、給料の高い仕事をやるのがすばらしいことで、どうせやるなら給料が多い仕事、そんでもって仕事ができるひと=収入が多い人がすばらしい、という環境がひろがっていたのある。

今もその流れは変わっていない気がする。

まぁ、お金をいっぱいもらえるということは、それだけ人に貢献したということで、いいことのようにも思えるけれど、それが良い貢献なのか、悪い貢献なのかは、結果的にはよくわからない。

例えば、美味しい食べ物を売って儲かった人がいていい仕事をしているとしても、美味しい食べ物を食べた人が、贅沢しすぎで死んでしまうとかあるんなら、質素な食事をすすめて、儲からない人が正しいということもある。

長生きがすばらしいなら、質素な食事はすばらしいが、長生きがすばらしくないなら、贅沢な食事がすばらしい、というように、なんでも結局何が良いか悪いかは、それぞれなんである。

なんで、必ずしもお金を稼ぐことが、すばらしいことなのかはわからないんだけど、現状は、お金持ちは、みんなの憧れの存在でもあるわけなのである。

なので、親がそうやっていうもんだから、子供たちはお金持ちになりたいって、思ったりしてしまうのも当然である。

でもって、いい仕事につくためには、勉強、勉強とかいって、勉強道具、塾にお金を払って、どんどん教育関連事業がお金が儲かっていく構図もあることも事実である。

お金を得るために、お金をいっぱい使ったら、結局お金は残らないと思うんだけどね。

人よりも何かを多くを得たいと願うと、競争がつきもので、ほんのすこし評価を得るために、びっくりするぐらい自分アピールする人もでてきたりと、豚が鼻を押しあって餌を求めるような人間の競争が、あることも少なくはない。

すごく収入がいっぱいある一方で、すごく支出もあるっていうのが、実際のところで、お金を求めることは、結局本当に正しいのか?ってのをいつも考えるのだけど、今の所それを否定する人はあまり多くもないようである。

みーんなお金をいっぱい使って、お金をたくさん得る。それが豊かってことのようだ。

とまあ、話が脱線してしまったように、お金の話になると、人間というのは、はげしく反応する。

話を戻して、やりたいことをやることが幸せなのに、お金を得るために自分が幸せにならないことを、やらされて生きている人たちがいる。

そして、それが今も少なくはない。

そんな大人たちがいるせいで、お金のためにやりたくないことをやるされる子供たちが生まれる社会がまだ存在している。

いやだったら、やめればいい。やめれば、嫌なことをやる大人がいない社会になる。そう、だから、あなたも嫌ならやめちゃえばいいんである。

とまぁ、極端な考えかもしれないけど、すごしやすく、本当にあるべき今を考えると、人生でやるべきなんてものは、ないというのが、やっぱり結論なのだ。

けれど、そうやって、まったく何もやらない状態を作らないと、本気でやりたいことなんて見つからないんだと思うだよね。

ということで、私も実践しようと試みたりするんだけど、結局なんにもしない毎日を作ることってのも難しかったりもする。

私の場合は、休みの日も英語の文章を読んだり、書いたりしたくなったり、ブログを書いてみたり、人の本質ってなんだろうなぁとか考えたり、子供のことを考えたり、ゲームをやったり、まったく何もしないという時間を作ることはかなり難しい。

ぜーんぶ、やりたいと思っていたり、やらなきゃと思ったりしなくても、気づくとやってしまっているということは、毎日あるわけである。

ご飯も食べないとだし、トイレにもいかないとだし、風呂にも入りたくもなるし、そう考えると、生きているだけで人間はなんか必ずやっているんである。

そうやって、完全な無職を想像しても、やるべきことを必ずあって、何かしら人と関わりを持つことになる。

生きているだけで、いろんなことと接点があったりするもんだったりする。

そうかんがえると、生きているだけで、すばらしいことが溢れているっていうんだよね。

地球レベルで人を考えると、誰かがいるおかげで、いろんなことがつながっているんだって、気づけるようになった。

そこにトイレを作った人がいるから、利用できる自分がいるんだけど、トイレを利用する人がそこに発生するから、トイレを作る人が生まれるんである

そういった発想で物事を考えると、何もしなくても、実は人には、ものすごい存在価値がある。

生きているだけで、すばらしいんだって思うだよね

だれもいない場所は、心細い。

でも、ちょっといやなやつだっていてくれたら、すこし元気になれたりする。そんなもの。

やりたいことは、さがすんじゃなくて、すでにやっている。というか、気づかずやっているもの。

それを、お金のために無理やりやるとか、仕事するとか、働くとか、嫌なものをやるせいで、本当にやりたいとが見えなくなったりする。

そんで、自分探しとか始めたりする。自分はすでに、そこにある。「自分探しはじめませんか」とかいう、アホなことを最初にいったやつが、悪魔だった気がしてしまう。

甘い言葉でのお誘いは、社会にたくさんあるが、それがまかり通っているのは、昔も今もかわらないと思う。

やりたいことをやる。やりたくないことはやらない。きっぱりと今をいきるだけで、すばらしいのである。

やるべきことは、あえて言うなら今やりたいこと。

老後なにがやりたいですか?って聞いているやつらが、考えているのは、老後何をしたいのかを聞いて、それをビジネスにしようとしているんじゃないんかねー

老後は田舎で暮らしたいっていう人がいたら、老後田舎で暮らせるサービスを始めようと考えるだろうし。

まーつねに将来のことを聞くやつってのは、ビジネスのことを考えているんだと思う。

やりたいことなんて、なんもないのが、今を生きているやつの素直な姿。やることは気づいたら終わってるんだものね。

人生にはやるべきことはなく。気づいたらやってきたことがいっぱいあった、そんな人生を歩みたいものである。

なーんて閉めたいが、すでにみなさん気づいたらやってきたことがいっぱいあるでしょ!すばらしいじゃないですか!

幸いです。

心残りのない人生を送るには、本当の心に従うことが大事である

人は明日を生きるのではなく、今を生きることしかできない

しかしながら、明日のこと、来年のこと、5年後のこと、10年後のことを無駄に考えて、生きてしまうことがある

あなたは大丈夫でしょうか? できていますでしょうか

私は10代のころ、たくさんの書籍を読み、西洋の書籍もたくさん読んだ

そこでは、大きな目標を達成するための計画をたてることが非常に重要視されており、当然経験のない私は、それに従い行動していた

将来のために、心の声に従わず、今を犠牲にする行動をとったことがあるのである

学校でも、中学生くらいになれば、卒業後はどうしたいのか?今の成績で、行きたい高校に行けるのか?その後の就職はどうするのか?夢なんてみないで、現実的なことをしないさいとか?

将来についての、問いかけを、否応無しに、年を取っている人間からいただいたものである

それもあって、高校に行くため、大学に行くために、私は10代のかなりの時間を勉強に費やしていた時期があった

勉強のため、友達との遊びの約束を断ったり、勉強のために家族や親戚と出かけることも断っていたりしていた

といっても、すべての自分の心の声には勝てないときもあり、勉強ではない、例えば音楽活動のようなことをやっていた

社会人になった後では、出世するために人よりも多くの仕事をやったり、効率よく組織というチームをリードするために、常に先回りで行動していた時期があった

しかし、その経験を踏まえ、振り返ってみても、やはり、将来を考えるよりも、現在を「常に今を」大事にすることが大事であったし、その今を考えなかった行動は、結局、心残りになってしまっていることを、後悔する自分がいた

阪神淡路大震災、311、911、飛行機の墜落、サリン事件、交通事故など突然の死は誰にでも起こりうる

このことは絶対に忘れてはいけないことである

また、自分には起こり得ないとも考えてはいけない

会社のため、出世のため、家族のために、今を犠牲にしている人は、だんだんに減ってきていると思うが、それでも自分の心の声を無視して、毎日を過ごしている人たちがいることを私は感じている

笑顔がなく、生活にゆとりがなく、目の前の人参を追いかける馬の風刺画のように、その疲れが顔にあらわれている人達がいることを知っている

そんな人のために、このダイアリーは書いている

よーく考えて、心の声を聞き、今やるべきでないことを無理にやっているのであれば、やめてしまっていいのである

もちろん安易に勉強したくないから遊んでしまうだけ、働きたくないから、仕事しないだけではダメである

遊んで何もしていない自分に後悔の念が残るのであれば、それは心の声にしたがっていないことであり、勉強をすべきであったのである

働かない自分に嫌気がさすのであれば、やはり働くべきと、心の声は伝えていたのである

家族のために頑張っている自分に心から納得していれば、疲れはその顔にはあらわれない

突然の死や、激務による死は、今のあなたの本当の心に従わない行動が引き起こしているのである

心の声に従わない行動は、常に私たちの顔から安らぎを失わせている

心の安らぎがあって始めて、他の人のことをも考えられるゆとりが出てくるものである

人を幸せにするためには、まず自分の心を幸せにする必要がある

ただし、注意してもらいたいのは、そこに欲望に従う心があってはならないのである

人よりも金持ちになりたい、人よりも偉くありたい、世間の注目を誰よりも浴びたい、多くの異性と付き合いたいなど、欲を満たすための行動は、心を失わせることにつながる

それをまず抑えた上で、自分の心が本当にやりたいこと、やるべきことを、毎日感じることは大事なのである

瞑想をすることが、非常に大事であると、実際に瞑想をしている人が言っているが、まさにそれは、自分の心と向き合うことなのであると私は気付いた

欲という雑念を消し、自分の心の底にある本心を引き出すために、心の声を聞くために、瞑想は行われているのである

まとまらない駄文になってしまったが、私が今日これを書いたのは、心の声に従っていない人には是非とも今こそ心の声に従ってもらいたいと思ったからである

欲望ではなく、本当の心に従うとき、そこには大きな安らぎが残るのである、そのことを伝えたかったのである

何かしら、感じてもらえたのであれば、幸いである

人の世界は都市に人が集まるよう設計されている

私は故郷を離れて東京に住んでいる。

理由は、深く考えると様々だが、集約すれば、仕事・お金のためである。

残念ながら、お金が理由であるということは、お金の発行権を持つもの、もしくは既に大量にお金を持つものにコントロールされた結果だということである。

私は、大学生くらいになるまで都心で暮らしたいと願ったことはなかったと思う。しかし、気づくと都心に憧れを持つように仕組まれていたという事実に気づいた。

私は小学生までは、算数は得意だけど、ほかの教科は苦手。特に暗記ものが大嫌いな、普通の子供だった。当然、誰にも期待されることもなく普通に育っていた。

ところが、中学生になり、最初の中間テストで、学年5番をとることになった頃から、狂い始めた。転校状態で中学生になったこともあり、まずは馴染むことがその時に課題であったのに「どこの高校に行くの?」ということを問われることが急に増えた。

田舎から優秀な人が行くとされる、都会の学校は憧れの場所に写っている。それが、現実だ。しかし、実際に経験するとそれほどすばらしいものでもない。しかし、その経験を持たないのであれば、憧れが良いものとして、映る。この時点で既に、都会へのベクトルが生まれている。