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ドローンから見える日本における産業の終焉

ドローンの空撮をするお騒がせ少年Nということで、世間を賑わせたドローン

注目すべきはドローンは海外製品であり、日本製品でないことである

日本のドローンは後発であり、そして残念なことに日本には技術力もないことがわかる

技術があったのは昔であり、工場がアジアに移っていくに伴いすべての技術は、日本からも去った

そして、それが哀しいかな、日本の現実なのである

金型など一部の移転できない技術が日本にまだ残っているのかもしれないが、産業のない日本から完全に技術が移転するのも時間の問題だろう

必要がないところに、技術など残るはずもない

豊田市において、アメリカのデトロイトのような破綻が起こるのが間もないのではないかと思っていたら、同じようなことを書いている人が既にいた

http://anond.hatelabo.jp/20130719095132

世界に向けて売るものが、日本からなくなることは事実なんだろう

そして、それほど時間もかからずにグローバル社会では相手にされなくなるんであろう

国際社会に相手にされない日本を受け入れるしかないだろう

けど、だからこそ、独自路線の生き方を続ければいいんじゃないだろうかと思うね

国際社会から断絶して昔からある、日本に合った行き方に戻ればいいだけだ

単純なことだ

資本的観点で貧しい日本が嫌な人は国を移るだろう

それでいいんだと思う

自らの意思で子を作らない社会の未来はない

仕事を中心に生き子供をあえて作らないという人が少なからずいる

自分が生きるだけで精一杯という理屈だ

だが、それは大いなるあやまちである

すでに自分が存在していることは、先祖からの生存の意思を受け継いでいるからこそである

それを、自ら絶つということはその否定である

自らの存在を否定してるということである

そもそも、自分で決める権限すら人にあるべきではない

子を作ることは、自然の流れなのであり、作らないことは自然に逆らうことになる

不自然なことなのである

不自然なことは、結局、宇宙のルールによって否定されることは、歴史を見れば明らかだ

マネー経済の弊害として、子供を作らない人が存在することになったのであれば、そもそものマネー経済が過ちであり、過ちを繰り返せば、人間が淘汰されるのもまた、自然の流れなのである

日本は、行き過ぎたマネー主義の反動で、滅びの道を歩んでいるが、それもしかたないのかもしれない

ただ、それを変えることも選択としてまだ残ってはいるだろう

まさに諸行無常である

常に同じ状態のものはなく、生きるものは死に、バブル時代に栄華を極めた日本も衰退国の烙印が押されている昨今、まさに諸行無常を感じるこのごろです

人口減少が顕著になった日本の傾向として、アルバイト人員の募集の多さを感じるようになってきました

イオンモールで感じたのですが、レジでも募集、専門店に行っても募集ということで、バブル時代とは違い、労働人口の減少に伴う募集だとは思いますが目立ちます。しかしながら、バイト代は休日でも1000円くらいということで、冷遇であることは変わらない

まだ心根は変わっていないのですな

労働賃金の減少に伴って出生率が下がるように、変化が起これば、かならずその影響を受けて別の変化が生まれていくという人間社会ですから、良く回るように願い動けば、皆が住みやすい社会が成立していくものと思います

今がたとえどんなに悪くても、いつかそれは終わるのである

常に救いはあります

仕事中心の人生なんてあるのだろうか?

昨日、私の実の弟に電話をした。結婚はしているが、子供はおらず共働きの30代の夫婦である。

親父が当選したこともあり、連絡をすべき必要にかられ電話したが、自分中心、そして仕事中心の状態のためか、電話の声も決して、覇気があるわけではない。こちらからの要件に、ただ、ただ、「はい」を繰り返していた。

子供のいない家庭に、それほどお金は必要はない。しかし、この夫婦は会社の指示に忠実に従って生きることに、異義を考えることがないようで、子供も作ることもなく、お金が必要ということもなく、仕事で忙しく毎日を過ごしている。

私は、この二人には前から疑問がある。お金を多く使う先がないのに働くことに意味があるのだろうかと。将来的に子供をつくるからならわかるが、計画的に子供を産むというのはなかなかできるようなものではないので、結局のところ会社の言いなりとなって働いているように私は感じる。

そもそも二人とも大学を卒業し就職した同じ会社の社員であり、良くも悪くも会社色に染まっている。関東からの指令に従い、二人ともに地方にとばされて働いてきている。会社からの会うこあいキビアいい、この地方勤務の指令を受け入れれた、あるいは文句も言わないからこそ、二人は続けてこれたのである。

もちろん、地方貢献はできただろうし、文句も言わず働いてきた一面もあるだろう。立派なことだ。ただ、私には、幸せそうに見えないのである。余計なお節介ではあるが。

目の前の仕事に、翻弄され生きている。私の目には、そんな風に映っているのである。

自分の人生で何をしたいかを、考える時間を持とうともしないのか、発想すらもないのか、ただ、目の前の仕事をこなすことで精一杯にみえるのである。

元気があり、希望に満ちた目をしているのであれば、こんな心配はしないのであるが、まったくその様子ではないのである。

なぜに、このような生き方をする人がいるのだろうか。私は、不思議に思う。もちろん、性格の問題もあるのではあろうが、それにしても、未来を考えることなく、ただ、文句も言わず、目の前のことを、一生懸命ではなく、ただひたすらにやるという生き方をしている人というのは、幸せなのだろうか?

私の身の回りを見回すと、半分くらいの割合でこのような生活をする人がいる気がする。

彼らの特徴は

生活に余裕をつくることを考えることもないから、生活に余裕がない

夢を考える時間を作ろうともせずに、希望のない生活を生きている。悪く言えば、目の前で精一杯。

自己主張をしないというよりも、多くを感じていないのか、数人のグループでも発言が少ない

もちろん笑顔が少ないから俺たちが幸せじゃないと、考えないでくれ。余計なお世話だという、気持ちもわかる。

けれど、それでいて、周りへの感謝の言葉も態度も少ないので、誤解もされてしまっている。

ただ、私は、時に「考えることが面倒くさいだけ?」なのだけかなと感じることもあるのである。

人生を自分の思い描くままに描いていこうという姿もなく、考えることすらも放棄というよりも、考えるという行動すらしたことがないような状態の人間が、生まれている気がしてならない。

考えることが面倒くさいから、言いなり。

ヒトラーが言った、「ロボット人間」。私はそれを彼らに感じるのである。

介護が必要になる親たちの影響

生まれた子供が年齢が上がるにつれて自然と淘汰されて減っていき、生き残った人で構成されるピラミッド型の社会構造は、貧しかった昔の話で、いまや釣鐘型というよりも、花瓶や壺のような逆三角形といっても良いほどに、若い人が不在で年寄りの多い人口構成となっている。

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圧倒的にお年寄りが多いので、自分の親の介護だけではなく、子供がいない高齢者の年金をも社会全体を通じて若者たちが支えなければならないことは、上の図をみてみると、納得せざるを得ない状況である。

しかし、親の介護に精一杯となり、子供を産む余裕がない社会となってしまっては、この悪循環は永遠に続くこととなり、ますます逆ピラミッドに近づいていき、日本人がこの世からいなくなる日も現実味を帯びてくる。

また、介護が必要な時期というのは、ガンや認知症といった病気も併発し、子供世代に多くの負担がかかってしまっている現実がある。

私の知っている女性も、結婚しているが、子供はおらず、すでに30代後半で、三姉妹で認知症の母親を分担して介護するため、月の半分は西日本から関東に戻ってきているそうだ。

もちろん、新幹線代は自腹。正社員ではなく派遣社員として働いてはいるが、ただでさえ少ない給料は親の介護に消えている。育ててくれた母親を施設に入れるのは、心理的抵抗もあるし、お金のこともあり、検討はしていないそうだ。

子供もおらず、親の介護で、お金がかかるという話は、なんとも未来がないような気がしてしまう。働いたお金が子供の子供ではなく、親にいってしまっては、未来がないような気がしてしまうだろう。

もし自分が老後介護が必要になり、自分の子供の将来を奪ってしまうような状態になったとき、どう思うのだろうか。

もしかしたら、その時の自分は合理的判断ができず、ただ辛いと子供に世話しろと言ってしまうかもしれないが、いまの自分なら、そんなふうには絶対になりたくない。子供たちが繁栄するためなら、自分が死んだっていいと思う。

それが普通ではないだろうか。

このような親世代が極端に多い構造は、戦争をやっていた時代から、戦争をやらなくなった時代に移ったことにも、要因があるのは否定できないし、医療の発達で子供よりも自分にお金をかけるようになったことも要因の一つであろう。

兵士を増やすために、産めや増やせの政策があったと聞く。

このような状態を改善するには、

・長生きをするなら健康に気をつける

・治る見込みの病気になったら延命ではなく、死を受け入れる

といったことが心構えとして必要である。

タバコもお酒もほどほどにする必要があるし、戦争をするために増やした朝昼晩の3度の飯を2度に戻す必要もあるだろう。しかし、そういった個人レベルの対策はそれほど大きな効果は産まないだろう。

未来を食べる原発だけではなく、資本主義社会の未来食いがますます加速することによって、人は滅亡に近づいているような気がしてならない。

このような状態ではあるが、目の前にある以上、私たちは受け入れざるを得ない。親の介護があることを前提に私たちは暮らしていく必要があるのである。

 

今こそ働く必要のない時代の生き方を模索すべきなのだ

もうすでに多くの人間は地球からの恵みが受けられる状況にあり供給量から考えれは、本来は働く必要がない

しかし働く必要があるのは、お金を集めることが大事だという、資本主義の残骸が機能を残しているからである

また、それがあるからこそ貧富の差が生まれているのである

でも、根本に変えれば、地球も太陽も誰の持ち物でもないのである。それを自分のものだと誤解し、争っている人間が現在存在しているにすぎない。

我々人間は、人間がどうやってつくられたのか知る由も無い。それでいて、欲に溺れ過ちばかりを繰り返している。おそらく、それを観察されているような状態がずっと続いているのであろう。

印刷済みの本は売れなくなるのか?

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私の生活では電子書籍が当たり前になりました。

私は、インターネットを使うようになってから、そもそも本や新聞を買うことを意識的に減らしていたこともあり、印刷された出版物をあまり読まなくなって10年以上経つわけですが、そろそろ印刷された本も消えていく運命にありそうだと予感しています。

数年前までは、電子書籍の話をすると、やっぱ紙じゃないとねといっていた周囲の人々もどうやら電子書籍が使いやすいと気付いてきたらしく普通に使うようになってきていることを感じます。

印刷された本の移動がなくなると、古本屋、廃品回収、書店は打撃をうけますから、この10年くらいでその整理もすすんでいるとは思います

本の輸送がなくなると、アマゾンや楽天などからの本の小売の輸送がなくなるだけではなく、そもそものトラック運送もなくなります。ビジネスのやり方は否応無しに変更されますが、それでも悪いことばかりではないはずです

一方で古書などは骨董品としての価値は残っていくのではないかと私は感じてはいます。古いもので良い本が、必ずしも電子化されるものばかりではないですから

ですが、漫画などの一時的な娯楽に位置付ける本などは確実に電子物になっていくと思われます

最初に表示していた「バーゲンブック」の写真は、その予想の流れが本流になりつつあることを、私に感じさせたときの写真です

バーゲンブックということで、本を安くだしても印刷された本の周りに人がいないんですよね。活字離れという見方もできるかもしれませんが、一昔前は、本の安売りという言葉すらも、あまり見受けられませんでしたから、だいぶ流れは変わっているなぁと私は感じました

電子書籍のデータ量は、数十メガバイトですから数秒でコピーできるし、いまのネットワークでしたら1分も関わらずにダウンロード、つまりは複製できる技術が揃っています

さらには、書店がオンライン市場をリードしているのではなく、楽天やアマゾン、ソニーなどなど、インターネットカンパニーがリードしている現状も、安値合戦が激しくなる予兆を感じさせます

すでに50%引きや、クーポンの戦いで熾烈なユーザー争いをしていると思われる電子書籍は、そもそもが簡単にコピーできるものなので、1冊100円程度まで、値段は下落するような気がします

一歩踏み込んで考えるとYouTubeで自作のビデオを流し広告収入で生活を送る人がでてきたように、ブログなどを通じ作品を作りたい人が直接ネットに情報を公開していくことが一般化されていくこともあり、いずれは出版会社もネットカンパニーもが衰退を迎え、そのころにはビジネスとしての情報提供の形は、随分と変わった姿になっている可能性もあります

印刷された本は、黄ばむし、本棚の整理整頓が必要ですが、電子であれば、検索もできるし、部屋はかさばらないし、捨てる作業も減ります。慣れるまでは大変かもしれませんが、慣れてしまえばこの便利さは、捨てられなくなる、そう私は感じています

私は、印刷済みの本は完全になくなることはないとは思いますが、私の子供たちの世代が親になるころには、現在のレコードのような状態になっていることを予想します。

収入が減ることで生まれること

年収倍増。年収が2倍になった。年収アップ。

と収入が増えることが、とても立派なことやすばらしいことのように思う人は少なくはないだろう。

しかしながら、通常の使用人、サラリーマンといった働き方をしていて年収が増えることというのは、決して喜ばしいことばかりではないことも理解しておく必要がある。

責任が増え、叱られることも、非難されることも増えるし。ただでさえ労働時間の長い日本で、以前よりも多くの時間の労働を必然的に求められる。また、自分の意思よりも、会社としての意思を尊重させられる場面も増え、考えて意見、行動せざるを得なくなる。

必然的にストレスも増え、少ない時間でやれることといえば、ブランド物を買いあさるショッピングや海外旅行といった浪費活動になる。

ここまで典型的なパターンを書いているが、実際に私も経験があるので、それほど外れてはいないと思う。

これらのことを行う人を客観的に見ると、良く働いて、良くお金を使って、死んでいく労働者なのである。人の意思を持たない、ロボットと言ってもいい。

人生でやるべきことというのがあるのかすら考えることもなく、会社の目指す、お金の収集に励むことに多くの時間を費やし生きていくのであるから、自分の心の声を聞くこともなくなるのも、当然といえる。

では、収入が減ったら実際にどうなるのであろうか、そのことについて書いてみたいと思う。

私は年収が 一千万円になることがあった。そのころは、株といった投資にも意識がいっていただけではなく、朝9時前から夜0時を越すくらいまで働かされていた。週末も必ずしも休めるわけではなく、土日のどちらかは出社をする日々であった。

自分の伝れた通りに動いてくれないチームメンバーや他のチームに苛立ち、期限が迫っているのにあせりもしないメンバーに苛立ち、そんな状況を知っているにも関わらず、何もしようともしない上位者にも苛立ち。およそ、他人を思いやれる人間では、まったくなかった。

それが私が経験した1000万円越えの使用人の生活だった。

このころ、私は心の声に気づいてはいた。学生の頃、貧乏だったこともあり、人のあたたかさを肌で感じていた。エピソードを書けばいろいろだが、少なくとも人のあたたかさを知っていた。だからこそ、このときの私の異常な心のあり方には、ものすごいギャップを感じていて、それが苦痛となり、大きなストレスとなっていた。

今では、まったく行かなくなった、温泉施設に毎週通って独りを求めたり、電車の中で他人の声を聞くのも嫌になり、耳栓をして会社に通ったり、昼間独りになりたいがために、独りで昼食をとる努力をしたり、自分が自分ではないとはまさにそのときのことであった。

いわゆる働きすぎの状態なのであった。

共食いを続ける人間

常に社会的弱者を作り出し、犠牲を出しながら生きるのは、地球に生まれた者の運命なのかもしれない

年間3万人もの自殺者を出す日本

弱いものが真面目に税金を払い、まじめに借金を返す日本。動物の世界であれば、これは共食いに等しい行為ではないのだろうか

とてつもなく多くの富を持ちながら、分けようともせず、贅沢な暮らしをする一方で、貧しいながらもまじめに生きている人間は犠牲者となって死んでいく社会を、変えられないというのは、まさに、共食いを許容していると私は感じる

直接的な共食いが、目に見える形で行われていれば、誰もがそれに気づくが、お金を通した共食いが行われているので、それは目につかんいのである

人間とはまったくもって、地球の子供だと思う

 

生活に注力させるという人の支配方法

生活に困ってる、お金がない

気づけば、こういう話ばかりが多くの人の考えの中心になっていますね

しかし、これは意図的にそうさせられているのだと私は感じるのです

お金がなければ何もできないことはないし、お金がなくても生活ができる、いや、お金がなんてなくても生存できたからこそ、我々人間は現に地球に存在していると思うのです

「お金」があったから、人が誕生したんでしょうか?

そうではなかったはずです、人が生まれたから「お金」が誕生しているのです。

だとすると、それは、何かしらの洗脳によって、我々に植えつけられているんではないか、そう私は思うんです。

地球で、お金のことを気にせず生きていたら、独立した完全な人間の集まりになりますよね、そうするとやることなど特になくなってしまうわけです。

やること目的のない人間をコントロールすることはとてつもなく難しいです

お金をやるから、これ頼むよって言ったところで、お金をもらって何の価値があるの?と返されます。

ご飯おごるから頼むよ。 ご飯いらないし。

など、何も欲しない人間がこの世に誕生していたら、誰もお願いなどできなくなります。

だからこそ、生きているだけで税金が取られる仕組みが存在し、生きている間はお金だけを考えていきるように設計されているとしか思えなくなるのです。