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サラリーマンの評価は、お互いの足を引っ張り合うように作られている

現場の社員が社員同志をお互いに評価する制度は、社員同士のライバル心を燃やさせながら精神を浪費するように設計されている。(精神支配の温床=病の増加)

使用人であるサラリーマンが、使用人である他のサラリーマンを評価させるという評価制度が、一般的に利用されている。これはどの会社でも行われている制度であり、一見普通の制度に思われがちだが、実は、これは巧妙に作られた、支配者が、使用人を操る戦術の一つである。

また、支配者である自分たちが直接手を下すこともなく、支配下の人間を活用できることもあり、安上がりな面も併せ持つ、優れた支配手段でもある。

戦時下において、捕虜に捕虜を監視させ、つまりは仲間同士を監視させ、精神的にも浪費させ、巧妙に支配するというのは、人心コントロールの常套手段である。これは、一般には教えられることはないが、帝王学においては、常識中の常識であるだろう。

この評価で行われていることは、羊の群れから、従順な奴隷リーダーを見つけ出すために、評価が行われているが、それには、(ヒツジは)だれも気付かない

リーダーになったものは、そもそも従順な奴隷リーダーである。その奴隷リーダーが、さらなる奴隷選別を繰り返す。奴隷はお互いに消耗させられるが、リーダーになったものは数パーセント程のわずかな褒美に喜び、継続して支配者に貢献し続ける、れが、このシステムの恐ろしいところだ。

また、このシステムを大企業が採用し、それを普通の制度だと一般に認識させてしまえば、下部の会社組織に適用させられ、従順な奴隷同志が、支配者にたてつくことなく支配を継続できるように功名に仕組まれている。

また、この制度は、精神疾患を伴わせ、精神病患者を増やす温床にもなっている。

精神病患者が増大している現実をきちんと見てほしい。

そもそも仕事は、依頼されてやるもの
評価されたもの、評価されないものを選別(従順さ)
評価が低いものは、自分はダメだと思い込ませる(支配)
実は、あなたを評価できるのは、あなただけ

そもそも仕事は、依頼されてやるもの

仕事とは、社員が組織の幹部や株主に依頼されて行うことであり、社員が自発的に考えて行動するものではない。

上司、部長、課長、そういった役職(奴隷リーダー)の人物が、さらに上の上位者の命に従い、下部に仕事の内容を伝達し、仕事は行われている。

依頼されたものは、自分の頭を使って、その仕事を行うが、そもそもは依頼があってから、仕事が生まれるのであり、自分たちで、何かを生み出すということはない。

依頼があって、始めて成立しているのである。

つまり、あなたが何かをしたとき、その依頼の評価は、依頼した人間に行うべきであり、依頼者がすべての責任を追うべきなのだ。依頼を出した人間がその依頼をおこなったという事実があるのだから。

しかしながら、実態はそうなっていない。依頼者のことは、闇に隠れたかのように表に出ず、実際に作業を行った、使用人が責任をとることになるのである。

評価されるべきは、依頼者であることが隠されている。

評価されたもの、評価されないものを選別

すでに何度も書いているが、評価とは、仕事(依頼)に対してより従順かつ、効率的に行われた人物を探し出すために、行われている。

一見、よく働いた人は、評価(褒美を出す)されるのは当然のように行われることになっているが、その裏にある、従順な人=奴隷リーダー候補を見つけ出すという意図は隠されている。

また、従順な人ほど、仕事に熱心で、盲目的に働く人物である傾向も強く、奴隷リーダーが、陰謀的な意味合いをもつこの意図に気づいたとしても、その制度の恩恵を受けているからこそ、否定することもないのである。

評価された者は、従順であり、支配者につき、従順でないものをコントロールするのだ。この恐ろしさに、気づくべきである。

評価が低いものは、自分はダメだと思い込ませる(支配)

評価とは、学校の成績の延長である。これは、間違いない。

学校の勉強の頃から、人は評価されることに慣れる。また、その評価の上下で落胆するものもいる。

敗者となったものは、自分の努力が足りない。自分は能力が足りないと、嘆くだけではなく。精神的にも追い込まれるのである。

ここで精神疾患を患うものも多いのだ。

そして、システムの弊害は、日本の異常な自殺者の増加を見れば明らかだ。世界のトップであるからだ。

しかし、このシステムの少数の勝者が社会で働くことになるために、永遠に自殺者が救済されることはない。同士討ちにおける勝者が敗者である同胞の屍の上に、成り立っているゲームであるからだ。

そもそも依頼者が評価されるべきもので、現場の担当を評価しているのだから、いただけない。

実は、あなたを評価できるのは、あなただけ

私達人間一人一人には、考える脳があり、世界を見渡す自由があり、パワーの源である心がある。

しかし、社会のシステムがそれを発動させないように功名なトリックで、その能力を隠蔽している。

依頼者が本来は評価されるべきもので、あなたが評価され。さらには、それから劣等感を植え付けさせられ、自殺にまで追い込まれる。

ばかげたシステムだと、思われないだろうか?

これは事実ではないか?異常な妄想か?

その判断は、読者にゆだねる。

自分が「好きなこと」は誤解しやすい 「心が軽くなること」をやろう!

「自分の好きなことをやろう」というメッセージはいたるところに転がっています。けれど、この好きなことって、学校や職場、一般社会の洗脳に晒され続け生きていると、実は見えなくなっています

好きなことが、本当に好きかどうかもわからなくなり、気づいたら、本当に好きなんだっけ?ということも多くあります。

その理由は簡単です。

この社会では、あなた自身にいくつかの役割が押し付けられて、そのイメージがあなたにその「好きなこと」をやらせているからです。

例えば、ゲームなどですが。ゲームの中で、ひたすら悪い奴を倒すということを、やっていたとします。自分は正義だ、今日も悪をやっつけた、ゲーム最高とね。

しかし、それって、普段の中で、何か不満があってそのゲームにハマっている可能性が高いです。

私も、仕事がつらい時期、帰りの電車でゲームをやっていたことがありますが、今思えば、なんでやってたのだろうか?と思うことが多々あります。

 電車で帰るという手段しかない
 会社の帰り道に持てるのは携帯ゲーム
 仕事とは別の世界に逃避したかった

まさに、3番目が、そのゲームをやらせていただけで、好きでそれをやっていたわけではないのです。

なので、好きなことをやることが、常に正しいと私は思いません。

「好き」という感情をミスリードしている可能性が大いにあるからです。

それよりも大事な視点は、「心が軽いか?」ではないかと私は感じます。

学校の生活や、仕事、家庭生活の中で、自分が生き生きしているときは、気分がよく、心も軽く、フットワークもよく、なんでもできそうな気がします。

その時は、好きなことをやっているというわけではなく、「心が軽く」なっている場合が多いはずです。

今、何かをしなくちゃという思考に押しつぶされそうになっていて、たとえばあの仕事、今日家で片づけておかないと、来週からの仕事がうまくまわらないとか、月曜日のあのプレゼン気が重いとか、「心が重くなっている」ことをやっているのであれば、そこに現在の人生の問題が潜んでいる可能性が大いにあります。

本当にやるべきことをやっているとき、人間の心というのは、実は、常に軽いという感覚にあると思います。

生き方、動き方が、フィットしている、ぴったりとあったことをしている。

のような場合は、必ず心が軽くなります。

もし、これを読んでいる皆さまが、心に余裕がなかったり、不安があったり、心が重い状態にあるとしたら、その状況の中で、心が少しでも軽くなるようなことを考えて、見つけてください。

そして、行動してください。そして、実感してください。

もし、本当に心が軽くなったのだとしたら、おめでとうございます。それこそが、今、自分がしなければいけなかったことなのです。

自分が「好きなこと」がわからなくなり、自分探しをするのではなく。心としっかりと向き合って「心が軽くなること」をやっていきましょう!

ピザハットでの経験 ブラックバイトだったのか?

私が学生時代アルバイトとして働いていた職場では、日常的に次のようなことが行われていた。

フランチャイズ店なので、本部がそのような対応をしていたかどうかは定かではないが、高校生のアルバイトは昔から給料が少ないだけでなく、そもそもの扱いがひどいのである。

12時間のシフト勤務

朝11時から夜の23時までのシフトを入れられていた。

最低合計2時間の休み時間は与えられていたが、12時間シフトの労働は合法なのか?

当日の労働時間の削減

注文が想定よりも少なく売り上げが悪い日は、強制的な休憩時間の割り当て、早上がりの強制が行われていた。

夕方17:00~21:00までのシフトを想定し働きに行くが、「今日は20:00で上がりな」と店長から労働時間を削減されていた。

当日の労働時間の削減は有効なのか?

損金の支払い強制

ピザのデリバリーにはお釣りが付き物である、何時間も働いていれば、お釣りのミスは発生する。

工場で物を作る仕事であれば、材料の欠損に近いものではあるが、お金が不足した場合は、アルバイトからお金を徴収していた。

「自分が間違えたから、自分で責任を取れ」と言われるわけであるが、会計上も損金処理はあるわけで、作業のミスは普通のことである。

確かに、悪意のあるアルバイトが毎回数百円以上も紛失するとなると、店側も疑いを持つかもしれないが、そもそもミスの多い労働者であれば、その作業から外せばいいだけであるのだから、お金が不足した場合に支払う制度を設ける必要はないはずだ

以上のような環境下で、私は約2年間、ピザハットでアルバイトとして働いていた。しかしながら、この店は経営状態が悪くなり結局は潰れることになった

ブラックバイトを雇って、ブラック営業を続けるようなお店はいずれ潰れるのであるから、それに関わっている真面目な高校生の皆さんは即刻辞めてかまわないと思う。

そもそも、アルバイト社員は、賃金も安く、何も保障されない身なのであるから、責任を取る必要はない

未来ある高校生が、ブラックバイトをしていたら、日本の未来もブラックに染まってしまうのである。

店からの電話にも出ず、バックレてしまえばいい。格差の根本は、高校生からの搾取の時から既にはじまっているのである。

最高の仕事は最高の報酬につながらない

一生懸命働けば報われるという言葉を聞いたことがあるが、実際のところ、それが給料に反映されるとは誰も言っていないのである

働けば給料もらえるというシステムの下で、動いているのがサラリーマンであるが、その動いている姿を見ているあなたのように、社長そして資本家はあなたを見ているのである

あたかも人参を追いかける馬のように

多くのサラリーマンはそれに気づけている、わかっていると言っているが、結局のところわかっていないのである。

奴隷であることに気付けないのが奴隷たる所以である

他人を怒ることは、意味あることか?

親が子供に対して怒る

先生が生徒に対して怒る

先輩が後輩に対して怒る

社長が従業員に対して怒る

客が店員に対して怒る

老人が若者に対して怒る

怒ることは、どれも人Aが人Bに怒るという構造という点で、これらはすべて同じものである

怒るというシチュエーションをより詳細に書いてみると

親が子供が怒る場合は、自分の子供はテストの点数が高くないといけないと思い込んだ親が、テストの点数が低い子供に対して怒っているのというシチュエーションがわかりやすい

客が店員を怒る場合は、注文した料理は10分程度でくると思い込んだ客が、30分経っても出てこないことに店員を怒るっているというのがありがちである

だが、しかし、それは果たして正しいことなのであろうか?

私は、人Aが勝手に自分の思い込みを、人Bに対して怒って、どうにかしてくれと、依頼しているにすぎないと感じている

私はたくさんの人が怒る場面を見てきたが、人Aがまったくもってダメな場合がほとんどなのである

ところが、多くの場面で、この人は怒るだろうなという人が、怒らない人に出くわすことがある

自分の子供の成績が悪いのは、自分が子供の成績を見てあげる時間がなかったからだし、自分だってすべてのことができるわけではないと悟っている人は怒らない

30分のお怒りの例として、生きている鰻をさばくところから始めるウナギ屋の仕事を知っている人であれば、そもそも怒ることろではなく、褒めるところであるとわかっているのである

自分の思い通りになっていないすべてのことは、すべて理由があって思い通りになっていないことであり、そして、その理由をあなた自身がわかっていないことなのである

怒る場所ではないのである

また、怒ることで何かが解決するものではないという心理に気づいていれば、絶対に怒ることはない

だから、私は怒っている人を見るたびに、怒ることなく学ぼうよと思うのである

あなたの依頼がわるかったり、知らないことが多いからこそ、あなたは怒っているのである

怒る人は、そもそも他人へ物事の頼み方すらわかっていない場合が、ほとんどである

人生はマイペースでなければ継続できない

短期的に仕事がデキる人になりたいと思う人は、少なからずいる

仕事の処理が早い=仕事がデキる=出世が早い

とかいう理屈であるが、実際のところは

仕事の処理が早い=上司が使いやすい=出世が早い=壊れるもの早い

という構図が出来上がっている。

自分経験にマッチしていて無理せずとも、処理できる仕事が早いし、よくできるのであれば、問題ないのだけれど、自分は仕事ができると思われたい一心で、無理して頑張る人というのはいる

たいていは高学歴の人が、これまでも無理して頑張ってきた人で、そういったずるい大人たちの手足になりやすい

怠けるとリストラされる、何々だとこうなるといった未来の出来事を見せての働かせ方は、結局のところ、人参でつって走らせる馬の絵の構図と変わらないということに気づいて、自らの心からのやりたいことに向かうべきなのである

 

日本には”新しい”指導者が望まれている

現在の日本は資本主義の末期にいると、日本人の一人一人が感じたり、自覚しているかは別として、バブル崩壊後、経済の縮小、人口の縮小が続くことが当たり前になってそのままでいる

・成長しない、つまりは新しい産業の生まれない日本

・支配階級のシャッフルが起こりにくい日本

・努力が実ることが少ない印象のある日本

こういったイメージが定着して離れそうにない

日本人の平均年齢は現在40代ということになっており、大企業も同じように管理職の割合が多いという状態が起きている

これが何を意味するかというと、平均年齢の管理職の給与が負担を維持するために、新入社員の給与が低くなったり、そもそも社員をいれず派遣社員を使ったり、アルバイトを使ったりと、管理職の給与を維持するための”いびつな”社員構成が、大企業では当たり前になっているということだ

ソニーの経営も危うい状態となっていることがニュースになるように、結局のところ日本の行き詰まりは、人口の減少と構成員の高齢化に伴う経済の鈍化が、現行の経済システムでは維持できないところまで、偏ってしまっているということにある

事実、皆さんご存知のように電気製品をとりまく業界は、崩壊しているような状態だ

新しい商品を作るよりも既出の商品を売る方が手堅いが、それではいずれ市場を奪われるというか、既に奪われた

データとして定時するものは現在持ち合わせていないので、これが絶対だとは言い切れないが、肌感としてはそのようないびつな状態が根本的な原因であるだろうと予想している

では、なぜ、今のような少子化がおこってしまったのだろうか、その背景については、あまり語られることはない

しかしながら、最近のネット情報によると、人口縮小計画がありを多くのグローバルリーダーが望んでいたということが漏れ出てきている

まぁ、事実かどうかは別として、時にはそう願うことはあるだろうと、私は思う。一般人は彼らに否定的なわけだから

いずれにしても現在の日本には、武士道を含む日本的な支配方法が江戸時代まではあったはずであるが、諸外国の影響で狂い始め、最終的には戦争で敗北させられ、資本主義・民主主義を押し付けられ、資本の提供、原子力の提供、そしてバブルあり、実った果実の収穫のようなバブル崩壊があり、ぺんぺん草も生えないようなゆっくり腐り始めた、栄養が不足したプランターのような日本が存在している

「日本という国」の「種子」をプランターに植え、資本というなの「肥料をまき」予定通り成長させの刈り取ったとも読みとれるのである

資本家たちの肥料が送り込まれない限り、これからの日本はまさに干からびるまで、崩壊が進んで行くのであろう

だが、しかし、彼らが日本を捨てる時が来る可能性もある

見捨てられた日本には、福島第一原発のようなゴミを残されているかもしれないが、それでも、生きれるのであれば、自らの国をもう一度立てなおす、チャンスが来る可能性があるのである

そのときこそ、資本主義ではない、日本の指導者が必要になるだろう

夜中にメールを打つ無礼

昔の日本人なら相手のこと考えて、電話する時間をきっちりと考えて行動したはずだ

しかし、現在、メールは相手次第をいいことに深夜だろうが、早朝だろうが、自分の都合の時間に贈ることが良しとされている

本当にそれは、よいことなのだろうか?

相手のことを考えずに済むという、相手のことを考えず行動してよいという行動が、周りに一つでもあると、それは徐々に拡大していくものではないだろうか

メールなら相手のことを考えずに送ってよいという、許可を一度与えたら、メールだけではなく、いずれ、多くの事柄について、相手のことを考えない行動がでてくるようにならないだろうか?

そもそも、無礼という教えが、現代において欠落し始めている

自分、自分と、自分主義が横行し、私達は協力して生きているという認識が薄れている

農作業を共同で行っていれば、そんなことはなかっただろう

簡単には抜け出せない村社会であれば、他人を意識するのは当然だったはずだ

しかし今や、その村社会は、会社という世界となり、転職もいつでも容易にできる社会となっている。

派遣労働によっていつでも切り捨てが可能な社会、すでにいるメンバーも不定の社会、そんな社会が人の絆を語れるのだろうか?

たかが、メールであっても、相手のことを考えて文章を作成し、時間帯も相手のことを考えて送ってみてはいかがだろうか?

相手を大事にすることは、結局は自分が大事にされることにつながるのであるのだから

仕事ができる=よく働く奴隷≠自分の人生を歩む人

私達は、なぜ生まれてくるのだろうか?

宗教の教えによれば、魂の成長の為ということになっている。

日本では、欲望を抑え、肉食を禁じ、菜食主義となり、魂の成長のために日々精進するということが、ないようにテレビは毎日欲望を誘う情報を垂れ流されている。

一方で、世界支配層は、そのことを認識しているということを書かれている情報があちこちにあり、お金も富みも、権力もある人程に、欲望を抑え、肉食を禁じ、菜食主義となり、魂の成長の為に日々精進しているようである。

仕事をする、よく仕事をする。仕事ができる。

と、そういったレベルの行動は、魂の成長にはあまり大きな影響は与えず、人並みのレベルであり、過酷な状況に追い込まれたり、家族が離縁していたり、体が不自由であったり、そのような状況での、心のコントロールの方が、本当は魂の成長に貢献できるようである。

自分の人生でやるべきことを見つけることは、魂の成長を促すことを見つけることであり、そして、それは実は最初から自分自身の周りに存在する課題であったことを、最近私は理解するようになった。

まずは家族から見渡そう、苦しんでいる人はいないだろうか?過剰な助けは不要だが、助けが必要な状況はないだろうか?

あなたができることはないだろうか?

次は親戚を見渡そう、苦しんでいる人はいないだろうか?過剰な助けは不要だが、助けが必要な状況はないだろうか?

あなたができることはないだろうか?

次は学校や職場を見渡そう、苦しんでいる人はいないだろうか?過剰な助けは不要だが、助けが必要な状況はないだろうか?

あなたができることはないだろうか?

心の心理的抵抗があることは、今はやらなくてもいい、でも、あなたができそうなことがあるなら、やってみよう。

どんなに些細なことであっても、他人のためになること、そしてそれが正解だったなら、心のふれあいが生まれるだろう。

時にはおせっかいになってしまうことが、あるだろう。でも、それはまだ感じ方のレベルが低いんだなぁと、見直し、学んでいけばいい。

あなたは魂を成長させる行動ができているだろうか?

私はわからない。でも、可能なことを今後もやっていきたい!

早いことはすばらしく、遅いことは悪いことなのか

できる人は仕事が早くできる

できる人は頭の回転が早い

こういう概念が一般的であるが、だからなんだというんであろうか

仕事が早い人は、仕事を遅くできないし、仕事以外のことに時間を費やしていないことが多い

頭の回転が早い人は、普通の人に説明をすることが下手だったりもする

何が言いたいかといえば、良いことの基準というのは正しいのかということだ

早いから闇雲によく、遅いとなんでも悪いのかといえば、そうではないのだ

自分のスピードに沿っていきればいいのである