子供のころ、仏教の偉いお坊さんは、何も考えない座禅ができるのだと思っていた。そういうことが瞑想するということなのであると考えていた。
しかし、そんなことは決してなかったのである。そもそも、無心になることは、人には無理なのである。
釈迦について、調べるようになったので、あの方が伝えたかった教えというものが、正しく理解できるようになってきた。
座禅を組むことは、何か特別のことをするためにしていることではなかったのである。自分の五感や感覚、欲によるよこしまな心の煩悩を閉じて、正しき心の声を拾い出すことなのである。(メディアが映し出す釈迦のイメージは、それを理解させないマインドコントロールなのかもしれない)
どんなに苦行をしても悟りを開けない、求める境地に至れないと釈迦が悟った。そして、このことは他の修行者達からも理解されないと悟った。その悟りが、仏教の基本にあると知ったが、そのことは、心に従って生きることなのではないかと、私は思うようになってきた。
座禅を組むことは、心を明らかにすることである。無心にしようとすることも、自分の中の真の心を明らかにすることであると考える。何も考えず無心になれ、というときの、何も考えないは、雑念を消しなさい、そして、本当の気持ち・心の気持ちに従いなさいということなのである。
そして、その答えつまり心の気持ちは、人々の心の内側にあるのである。正解は、常に個人にあるのである。
そしてもっというと、真の心とは神であると、私は解釈するようになった。人は一人一人が神様を保有しているのである。心に従う、その心こそが、神なのであると考える。
この解釈については、別の機会にまとめていきたいと思う。
「そもそも、無心になることは、人には無理なのである。」これは、その通りです。
しかし、その先にある境地については、本当に仏教を正しく理解した先生に学ばずに独自の解釈をしてしまうと、99.9999999999…%以上の確率で『魔境』や『異安心』(間違った悟り)に陥って抜け出せなくなってしまい、非常に危険です。
しかも残念なことに、現代の日本には仏教の教えを正しく理解している僧侶や仏教学者は殆どいないのが実態なのです。
これは仏教に説かれている、しかも最近の脳科学にも裏付けられている「人間の本当の姿」を知れば「なるほど」と納得できることなのですが…