毎日心から生まれる今日やりたいことは何なのか?

長期的な目標を立て、継続的に何かをする

例えば受験をして大学に合格をするとか、資格を取得するとか、長期的な学習を経て何かをするという場合には、他の何かをしたいという気持ちは、消さなければいけない。もしくは、減らさなければいけない。

そういったときに心の気持ちを無視して、義務的に何かをすることは、果たして正しいのかと私は考えことがあった。

何かに合格する、資格を取得するというようなことは、短期的にみれば自分の利益につながるので正しいことにも思える。しかし、心に従わなかった場合、その時に生まれた気持ちは殺されているのである。(私の場合心に従っていない行動は、うまくいかないことが多い)

人の人生とは、出会いにも大きく左右される。

心に従うことでとった行動による人の出会いがあるのであれば、従わなかったことのよる人の出会い、そして従わなかったことによる失われた人の出会いもあるはずなのである。

この場合は心が示す出会うべき人への導き殺したことになるのではないかと、ある時から私は考えるようになった。

人は心の生き物、心があるこそ人なのであり、その心の命令に背いて生きるべきなのだろうか?

と。

いや、確かに、気持ちを抑えるべきことは当然ある。たいていの場合、それは欲である。欲は心の働きとは別なので、欲はきちんんと分離して私は考えている。

欲の気持ちと心は違う

心の声に従って何かをした後は心が清々しくなる。しかし、欲に従って何かをする場合は、心の声がやるべきでないと語りかけてくるので、やっているときにも気持ち悪いし、やった後でも後悔することになる。このことから、欲と心は別物であることがわかる。

自分の芯にある、心の意見に従うと、なぜか実に清々しいのである。

このことから、私は人の心は無視してはいけない、我慢してはいけない司令役なのではないかと思うようになっている。朝起きて、心が芯から今日はこれをすべきと考えているのであれば、それには従うべきなのである。

両親に怒られる、職場で怒られる、子供に怒られる、多くの他人からは、心が示す行動について他人様から否定されることなのかもしれない。しかし、自分の心がやるべきであり、心が清らかになる行いを、今日すべきとその自身の心が伝えているのであれば、何があってもやるべきなのではないかと考えている。

心清らかに生きるということは、心に従って生きることである。

学校で教わった心清らかに生きるということを子供のときは、自分の気持ちを抑えて、他人のために働くこと、人がいいと思うこと、大人が立派だと思うことをやることかと考えていた。しかしながら、それは間違った解釈であった。

心清らかに生きるとは、心に従って生きることなのである。少しづつであったが、そう実感するようになってきた。

人は心の生き物なのである。

だから、心に従って生きなければ、清らかに生きてはいけない。心が後悔するのであれば、どんなこともそれはやるべきではない。

どんなにお金があろうが、裕福であろうが、それは変わりはない。たいていの場合、お金を手に入れようという気持ちは欲があるからこそだからである。人と何かを共有しよう・分かち合おうと思った場合、他人からお金を取るという発想は産まれない。だから、お金を持っているということは、やはり清らかではないと私の心は言っている。

今日も心清らかに生きる

心に従って、この話も書いている。この文章を読んで、心の働きを理解される方がもしいたら、幸いである。

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