修行という行いを私はしたことがない。
滝に打たれるとか、座禅を組んで微動だにしないとか、そんなことをして何になるのか?そう考えたからである。
しかし、いわゆる肥満児であった私は、高校生の頃から、食事制限をするようになり、修行と同様のことをすることに目覚めた。大学生の頃には、1日1食、全く食べないということもあった。同様に、見よう見まねで、座禅を組んで無心になるトレーニングもしていた。
別に何かをしようというわけではなく、自然とである。何かをしようという感覚ではなく、無心となり、その日すべきことを見つけたかったのだと思う。
話はそれるが1日2箱とあった禁煙も1日でやめることができなのも、そういった修行があったからかもしれない。
なぜ修行の真似事を私はしていたのだろうかと今考えてみると、心のどこかに、仏教的な憧れがあったのではないかと、考えるようになってきている。全くの縁を感じていなかったのであれば、瞑想も行わなかったのであろう。
話を元に戻すが、修行とは、人それぞれなのだと思う。働くことが修行になる人もいるし、なんでもいいんだと思う。これをしなければいけないと限定するようなものはいけないと私は思う。