道を歩む4

生きものを殺してはならぬ

また殺さしめてはならぬ

また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ

世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて


自分の子供が、何の関わりのない人に殺されてしまったときに、犯人を許すことができるのかといえば、Noであるが、死刑にして欲しいと願うだろうかと問われた時、Yesという人もいれば、Noと言う人もいるんだと思う。

テレビのコメンテーターが死刑を求めるだけではなく、裁判官も死刑を選ぶことが実際に起きている。

ブッダの教えに従うのであれば、それさえもNoなのであろう。

よくコメンテーターは、なぜそれが起きたのか、なぜ未然に防げなかったのか、平気でコメントするが、それはいつもできるものではない。きっと誰もできないんだと思う。

無理なことを言うのはやめてほしい。

しかし、本当に未然に防げない社会を作っている自分たち、心の闇を生んでしまう社会を作っている私たちに問題があると、自覚があるのであれば、死刑を求めることはできないという感情も芽生えてくるのではないだろうか。

誰かが自分の子供を殺したとき、失った悲しみで冷静さを失うのは誰しもであろう、ただ、相手を殺しても自分の子供は二度と戻ってはこないのである、相手を殺しても何も解決しないのではないかと思う。

相手に同じ思いを味あわせてやろうと思ったところで、相手はまた違った葛藤のもとに生きている。おそらくまったく理解できないような思考をもっているのだろうと思う。

だからといって、相手を理解しようともせずに生きてきたことにも、闇を生む原因があったのではないだろうか。

すべての人類を愛することは、簡単ではない

でも、それが実現できたとき、はじめて人類は次の段階に進めるのだと思う

しかし、それは不可能にも思える

少なくともこの2000年間の歴史を見る限りでは、それが実現できた人というのは、いたとしても数人だったのではないだろうか

今日も肉を食べる=生き物を殺している

我々は罪深いですね

 

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