勝利からは恨みが起る
敗れた人は苦しんで臥す
勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、
安らかに臥す
人はいつから勝負をするようになったのでしょうか
勝負は必ず勝ち負けがあります。そして、争いをする心こそが勝負を生んでいるんだとおもいます。
いつからそんな勝負をする心が当たり前になるのでしょうか?
この世に赤ちゃんとして生まれ、親に優しく育てられた恩もわすれ、これは私のおやつだ、これは私のものだと、自己主張を始める心。誰も勝負をすることなど望んでいないのに、勝手に始める自己主張。その心根がすべての始まりなんだと私は思います。
分け合う心を持っていれば、この自己主張の愚かさに気づくはずなのに、その気持ちを育てようとしない人々の心根こそが、争いの種です。1万年以上の歴史を持って生きてきても、この哀れさを理解し、勝負を止めることができないでいます。
今日も争いが起きています。
気づけばこの世(人の世)は争いばかりです。次のオリンピックやテストでトップ10を目指す、次の選挙でも当選する。一番に食べ終わる、一番に出世してCEOになる、一番に何々する・・・
選挙だって勝負ですから、良いものではありません。
選挙で当選して人のために役に立つんだという思い上がりをする人もいますが、それぞれの人間が自分で為すべきことを正しく行っていれば、そもそも何か物事を決める必要もありません。
人々の個々の活動があって、社会が成立しているべきなのです。社会が個々を管理しようとするから、人々が堕落して、人ではなくなっていくのです。
勝手に何かを推進する人々がいて、勝手に何かを進め、俺様を気取る人たちがいるからこそ、選挙が「人の世」に必要なんです。
選挙の応援という概念も、まずそこが問題だと感じます。この世に生まれた人は、みなが主人公なのですから、他人を応援する暇があるなら、自分の考えを主張し、その人にとってのしかるべき道を歩むべきだと考えます。
他人とは違う道が、それぞれの人にあるのですから、人生に争う暇はありません。争おうと思っても、道が違うので比べることもできない、それが人の道だと思います。
争いの先に何かあるのでしょうか。
学校のテストで一番をとって、その先にどんな目的があるんでしょうか。
そこには、自己満足の目的しかないのではないですか?
お金持ちになって、その先にどんな目的があるんでしょうか。
そこにも、ろくでもない目的しかないのではないのでしょうか?
会社の経営者となって、その先にどんな目的があるんでしょうか。
人として、善い行いは、勝負の先にはないのです。正しいことは、常に今そこにあります。
家族のために、良い料理を作りたい、良い道具を作りたい、良い環境を作りたい。この目的があって、そのために調べ・学び、お金を作ることに、意味がでてくるのです。
助けたい人がいて、もう既に助ける活動をしているけど、自分の力不足を感じるからこそ、より高度な知識が必要で勉強をしている。
そのような目的がないのに、唯、唯、一番を目指すような教育を子供に押し付けるところから、人の世はまちがっている。
それぞれの家庭が、家をしっかりと持ち・守り。その家のためにできることをやることから出発すれば、各家庭が強くなり、個人も強くなっていくと私は考える。
それがないからこそ、現代は、家が破壊され、結婚もしない、子供もつくらない、子供を授かってもしっかり守らない、オスとメスが増えているのである。
勝負をする前に、やるべきこと(無限に)がいくらでもあり、そもそも、勝負には人との共生の概念が欠如しています。
助け合って進むべき社会に、価値のないものだと思います。